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作成日:2026/06/23
【2026年5月25日施行】事業譲渡等指針の改正で何が変わるか ―企業価値担保権とM&A・事業承継の労務実務
法改正解説 / M&A・事業承継
【2026年5月25日施行】事業譲渡等指針の改正で何が変わるか
―企業価値担保権とM&A・事業承継の労務実務

「価格交渉」だけでは終わらない。M&Aの成否を左右する「人」への対応を、改正のポイントとともに社会保険労務士が解説します。
📌 この記事の要点
・2026年5月25日、改正後の「事業譲渡等指針」が適用開始。改正の核心は「企業価値担保権」の実行手続に関する項目の新設です。
・事業譲渡は「特定承継」のため、従業員ごとの個別かつ真意による承諾が必要。形式的な同意書だけでは不十分です。
・個別協議をしていても、労働組合からの適法な団体交渉申入れは拒否できません
・企業価値担保権の実行では裁判所が管財人を選任。雇用維持を原則とした承継先選定が求められます。
・合併は「包括承継」で個別同意は原則不要ですが、合併後の労働条件統一には別途の手続が必要です。
M&Aや事業承継を検討する際、まず注目されるのは買収価格や財務条件です。しかし実務では、「従業員をどう守り、どう納得を得るか」という労務面の対応が、取引の成否や買収後の統合(PMI)の成果を大きく左右します。

2026年5月25日から、厚生労働省が改正した「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(以下「事業譲渡等指針」)が適用開始となりました。本記事では、M&A・事業承継を進める企業の担当者が押さえるべき労務ポイントを、改正の経緯と根拠条文を確認しながら整理します。
1. なぜ今、事業譲渡等指針が改正されたのか
今回の改正の背景には、事業性融資を後押しする新制度「企業価値担保権」の創設があります。企業価値担保権は、不動産等の有形資産に乏しいスタートアップ等が、不動産担保や経営者保証によらず、事業の実態や将来性に着目した融資を受けやすくするための制度です。根拠法は「事業性融資の推進等に関する法律」(令和6年法律第52号。以下「事業性融資推進法」)で、令和6年6月14日に公布されました。
この担保権は事業価値をまるごと担保に取る仕組みであるため、担保権が実行される局面では事業の譲渡や再編が伴う可能性があります。その際に事業が分断されたり雇用が不安定になっては本末転倒です。そこで、事業性融資推進法案に対する国会の附帯決議(衆議院財務金融委員会・令和6年5月17日、参議院財政金融委員会・令和6年6月6日)を受け、厚生労働省の労働政策審議会労働条件分科会「組織再編に伴う労働関係の調整に関する部会」において、金融庁のガイドラインも踏まえた検討が行われました。
その結果、令和8年(2026年)1月20日に事業譲渡等指針が改正され、「企業価値担保権の実行手続において管財人が行うべき事項等」の項目が追加されました。そして、企業価値担保権制度の施行(金融庁によれば令和8年春頃を予定)に合わせ、改正後の指針は2026年5月25日から適用されています。
ここに注意 ― 「事業譲渡のルール全体が変わった」わけではありません
事業譲渡・合併における基本的な労務ルール(特定承継・真意による承諾・団体交渉への対応など)は、平成28年8月17日の厚生労働省告示第318号で従来から定められていた内容です。今回の改正で新たに加わったのは、あくまで企業価値担保権の実行手続に関する項目です。報道等で「対応義務が強化された」と表現されることがありますが、正確には「企業価値担保権という新たな局面に対応する規定が追加された」と理解するのが適切です。
2. 改正前/改正後の比較
今回の改正で「変わった点」と「従来からある点」を整理すると、次のとおりです。
項目 改正前(〜2026年5月24日) 改正後(2026年5月25日〜)
事業譲渡時の
個別承諾
特定承継として個別の真意による承諾が必要(既定) 同左(変更なし)
団体交渉への
対応
労働条件等は団交事項として誠実対応が必要(既定) 同左(変更なし)
企業価値担保権の
実行手続
規定なし(制度自体が未施行) 新設。管財人の情報提供の努力、雇用維持を原則とする承継先選定、善管注意義務等が明記
平時の
労使対話
指針上の明示的記載は限定的 新設。担保権設定企業は平時から経営課題を労働者と共有・情報提供することが望ましいと整理
※赤字の項目が今回の改正で新たに追加された内容です。それ以外は従来からの指針の枠組みを維持しています。
3. 事業譲渡は「特定承継」―個別かつ真意の承諾が必要
M&Aの手法には事業譲渡、株式譲渡、合併などがあります。このうち事業譲渡は「特定承継」であり、権利義務が自動的に承継されるわけではありません。譲渡対象の従業員の労働契約を譲受会社へ移すには、従業員一人ひとりから個別の承諾を得る必要があります。
指針は、単に同意書へ署名をもらうだけでなく、真意に基づく承諾を得ることを求めています。そのために、譲渡に関する全体の状況、譲受会社の概要、勤務することとなる労働条件(業務内容・就業場所等を含む)について十分に説明し、承諾に向けた協議を行うこと、承諾を得るまで時間的余裕をみて協議することが必要とされています。労働条件を変更して承継させる場合は、その変更についても別途同意を得る必要があります。
なお、承継予定労働者が承諾しなかったことのみを理由とする解雇は、客観的に合理的な理由を欠き社会通念上相当と認められない場合、労働契約法第16条により権利濫用として無効となり得ます。事業譲渡を理由とする解雇にも整理解雇の判例法理が及ぶため、配置転換等の雇用維持措置を検討する必要があります。
4. 労働組合との関係 ―団体交渉は拒否できない
従業員と個別に協議を進めていても、労働組合から労働条件等に関する適法な団体交渉の申入れがあった場合、これを拒否することはできません。労働組合法上、労働条件に関する事項は団体交渉事項に該当し、誠実交渉義務が生じます。個別対応だけで済ませようとすると、不当労働行為(労働組合法第7条)と評価されるリスクがあります。
社内に労働組合がなくても、外部の合同労組(ユニオン)が介入するケースは少なくありません。「組合がないから団交は関係ない」という前提は通用しない点に注意が必要です。
5. 企業価値担保権の実行局面 ―管財人と雇用維持の原則
今回の改正で新設された中核部分です。企業価値担保権の実行手続では、事業性融資推進法第109条第1項に基づき裁判所が管財人を選任し、裁判所がこれを監督します。改正後の指針は、同法第122条に基づき、管財人が労働組合等に対して労働者の権利行使に必要な情報を提供するよう努めるべきことを明記しています。
管財人は、労働者を含む利害関係人に対して善管注意義務を負います。買受人の選定が労働者保護の見地から不適切で、その注意を怠った場合には、利害関係人による解任請求損害賠償の対象となり得ます。
そして、企業価値担保権の実行に伴う事業譲渡では、事業を解体せず、雇用を維持しつつ承継することが原則とされ、承継先(買受人)の選定にあたっては譲渡金額の多寡のみでなく、雇用の維持・取引関係の維持・事業の継続可能性など多様な事情を考慮することが求められます。なお、平時においても、企業価値担保権を設定する企業は経営課題について労働者と意見交換し、労働組合等への情報提供を行うことが望ましいと整理されています。
✓ 押さえておきたいポイント
「価格だけで承継先を決めない」という考え方は、あくまで企業価値担保権の実行局面に関する規定です。通常の事業譲渡や株式譲渡に直ちに法的義務として及ぶものではありません。もっとも、雇用や取引関係を重視する選定の考え方が公的な指針で示された意義は大きく、一般のM&Aにおける承継先選定の議論にも実務上の参考となり得ます。
6. 合併は「包括承継」―労働条件は原則維持
事業譲渡とは異なり、合併は「包括承継」です。消滅会社の労働契約は、存続会社(または新設会社)へ自動的に承継されるため、従業員からの個別同意は原則として不要であり、労働条件も原則として維持されます。
ただし、合併後に労働条件を統一する場合は、不利益変更に該当する可能性があります。その場合は、就業規則の不利益変更の合理性(労働契約法第10条)や個別合意(同法第8条・第9条)など、所定の手続に従った対応が必要です。
手法 承継の性質 個別同意 労働条件
事業譲渡 特定承継 必要(真意の承諾) 承継条件を個別に提示
合併 包括承継 原則不要 原則維持(統一時は別手続)
株式譲渡 会社の支配権移転(雇用主は不変) 不要 原則維持(既存の権利義務を承継)
7. M&A担当者の実務チェックポイント
✓ 局面別アクションリスト
【事業譲渡の場合】
☐ 承継対象者の範囲を明確にする(職種・部門・雇用形態)
☐ 説明資料を準備する(譲受会社の概要、労働条件比較表)
☐ 個別説明会・面談のスケジュールを組み、時間的余裕をもって協議する
☐ 承諾取得のプロセスを記録・証跡化する
☐ 労働条件変更を伴う場合は変更内容を明示し、別途同意を得る設計にする
☐ 労働組合からの団体交渉申入れに備える

【企業価値担保権を活用する場合】
☐ 平時から経営課題を従業員と共有する場を設ける
☐ 情報提供のルールを社内規程・危機対応フローに盛り込む
☐ 管財人・裁判所との窓口を一本化する体制を整える
☐ 雇用維持を前提とした承継先選定方針を明確にする

【合併の場合】
☐ 包括承継であることを従業員に説明する
☐ 労働条件の統一計画がある場合は、不利益変更手続を確認する
☐ 就業規則の統合スケジュールを策定する
8. よくある誤解とリスク
誤解1:「同意書をもらえばOK」
形式的な同意書だけでは不十分です。説明・協議のプロセスが重視されており、後から「説明を受けていない」「理解していなかった」と主張されるリスクがあります。
誤解2:「労働組合がなければ団体交渉は関係ない」
社内に組合がなくても、外部の合同労組(ユニオン)が介入するケースがあります。労働条件に関する事項は団体交渉事項であり、拒否すれば不当労働行為となり得ます。
誤解3:「企業価値担保権を設定すると雇用が不安定になる」
設定それ自体で雇用主が変わったり労働条件が変わるわけではありません。実行局面でも、雇用維持が原則とされています。
まとめ ―労務面の準備が、M&A成功の鍵
M&Aや事業承継を成功させるには、財務・法務面だけでなく、労務面での丁寧な対応が不可欠です。今回の事業譲渡等指針の改正は、企業価値担保権という新制度の実行局面において、従業員の保護と円滑な事業承継を両立させるための枠組みを整えたものです。M&Aを検討している企業は、次のアクションを早期に着手することをお勧めします。
✓ 早期に着手したいこと
☐ 労務デューデリジェンスを徹底する(未払い残業代・労働条件の不一致の把握)
☐ 従業員への説明・協議プロセスを設計する
☐ 労働組合・ユニオン対応の体制を整える
☐ 社会保険労務士などの専門家に早期相談する
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■ 根拠法令・参考資料
・事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針(平成28年8月17日厚生労働省告示第318号、令和8年1月20日改正)
・事業性融資の推進等に関する法律(令和6年法律第52号)第109条・第122条
・労働契約法(第8条・第9条・第10条・第16条)
・労働組合法(第7条)
・厚生労働省「事業譲渡等指針の改正等について」/金融庁関連公表資料
※本記事は2026年6月時点の情報に基づく一般的な解説であり、個別の事案への法的助言を行うものではありません。実際のM&A・事業承継にあたっては、事案の具体的事情に応じて、社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。
WRITTEN BY
三重 英則(みえ ひでのり)
社会保険労務士法人T&M Nagoya 社員
特定社会保険労務士 / 経営心理士 / 経営法曹会議賛助会員(SRP認証番号 第160175号)