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作成日:2026/05/27
【PART5】M&Aスキーム選定と労務リスク ―株式譲渡と事業譲渡の実務比較
M&Aスキーム選定
 
M&Aスキーム選定と労務リスク
―株式譲渡と事業譲渡の実務比較
 
社会保険労務士法人T&M Nagoya
📌 本記事の要点
・株式譲渡は対象会社の法人格を維持するため、労務リスクが原則そのまま買い手に承継される
・事業譲渡は特定承継のため労働者ごとの個別同意が必要だが、引き継ぐ範囲を限定できる
・2025年6月成立の年金制度改正法により、賃金要件(公布から3年以内に政令指定)・企業規模要件(2027〜2035年)・個人事業所要件(2029年)が段階的に撤廃され、未加入リスクの規模は年々拡大
・スキーム選定は財務・税務だけでなく、労務リスクの定量評価を踏まえて行うべき
M&Aの実行時、検討の俎上に上がる代表的なスキームは株式譲渡と事業譲渡です。両者は労働関係の取扱いが法的に大きく異なり、未払い賃金・社会保険・労使紛争など潜在的な労務リスクの承継態様も変わります。

本記事では、両スキームの法的相違、それぞれの労務リスクの性質、そして実務における選定の考え方を整理します。
1. 株式譲渡と事業譲渡の法的相違
両スキームの本質的な違いは、取得対象が「株式」か「事業」かにあります。これが労働契約の取扱いを大きく分けます。
比較項目 株式譲渡 事業譲渡
取得対象 対象会社の株式 対象会社の事業(資産・負債・契約)
法人格 対象会社は存続(株主が交代するのみ) 譲渡会社は存続、買い手は別法人
労働契約の承継 そのまま継続(雇用主に変更なし) 特定承継。労働者の個別同意が必要(民法625条1項)
労務リスクの承継 対象会社に原則包括的に残存(未払い賃金・未加入保険等を含む) 承継対象を契約で限定可能(リスク遮断が可能)
承継労働者の選別 全従業員が当然承継 承継対象を任意に選別可能
手続の煩雑さ 比較的シンプル 資産・契約ごとの移転手続が必要
事前説明の枠組み 法的義務化された包括的枠組みは存在しない 事業譲渡等指針による事前説明・協議が求められる
2. 株式譲渡における労務リスクの性質
株式譲渡では対象会社の法人格に変更がなく、労務リスクは対象会社にそのまま残存します。買い手は株主として対象会社を支配することになるため、対象会社が抱える簿外債務は実質的に買収後の経済的負担として顕在化します。デューデリジェンスを誤ると重大な簿外債務を抱え込むことになります。
株式譲渡で承継される主な労務リスク
@未払い残業代:時効期間内(現行3年・将来5年)の請求権が承継。数千万〜数億円規模となるケースも
A社会保険未加入:過去2年分の遡及加入と保険料負担、加えて従業員への通知・説明対応が必要
B労働条件の不備:雇用契約書未作成、就業規則未届出・未周知などの法令違反状態
C潜在的ハラスメント案件:未解決のセクハラ・パワハラ事案、過去のメンタルヘルス休職者の復職対応
D名ばかり管理職問題:管理監督者該当性が疑わしい役職者の未払い残業代リスク
E固定残業代の有効性:時間数の明示・差額精算など要件不備による無効リスク
3. 事業譲渡における労務上の留意点
事業譲渡では、引き継ぐ労働者を譲渡契約で個別に特定でき、承継対象から除外することも可能です。これにより、特定の労務リスク(例:係争中の労働者など)を譲受会社に移転しない選択肢が生まれます。

ただし、事業譲渡には独自の留意点があります。なお、2026年5月25日からは改正された事業譲渡等指針が適用され、企業価値担保権に関する事項が追加されるなど、労働者保護の枠組みが強化されています。
事業譲渡における労務上の留意点
@個別同意の取得:承継対象労働者から「真意による承諾」を得る必要があり、説明不足は同意の効力を揺るがす
A労働条件変更を伴う承継:変更内容も含めた同意が必要(事業譲渡等指針)
B労組への対応:譲渡対象事業に労組がある場合、団体交渉応諾義務あり
C事業譲渡等指針の遵守:厚労省告示に基づく事前説明・協議が求められる
D承継から漏れた労働者の処遇:整理解雇法理が適用される可能性。希望退職募集等の解雇回避努力が必要
E重要ポストの承継合意:キーパーソンの離反を防ぐリテンション設計が決定的に重要
4. 社会保険適用拡大による未加入リスクの増大
短時間労働者に対する社会保険適用拡大により、M&A対象企業の未加入リスクの規模は年々拡大しています。2025年6月13日に成立し、同年6月20日に公布された年金制度改正法のスケジュールは以下のとおりです。
施行時期 現行制度 改正後
公布(2025年6月20日)から3年以内に政令で定める日 月額88,000円以上(年収106万円相当)の賃金要件あり 賃金要件を撤廃。週20時間以上の労働者は原則全員加入対象(最低賃金引上げ状況を見極めて施行)
2026年10月1日 新たに加入対象となる短時間労働者に対する3年間の保険料負担軽減の特例措置開始
2027年10月1日〜
2035年10月1日
「従業員51人以上」の企業規模要件あり 企業規模要件を段階的撤廃(2027年10月から36人以上の企業が対象。最終的に2035年10月に完全撤廃)
2029年10月1日 常時5人以上の17業種の個人事業所のみ適用 対象業種を全業種に拡大(既存事業所は経過措置あり)
M&Aの労務DDでは、現時点での未加入実態だけでなく、将来の段階的拡大に伴う保険料負担増を予測することが不可欠です。買収後に新たに加入対象となる従業員数と、その保険料負担(健康保険・厚生年金・雇用保険の事業主負担分を合計すると、概ね月額賃金の約15%)を試算しておくべきです。
5. 労務デューデリジェンスの実務
スキーム選定の判断材料を提供するのが労務デューデリジェンス(労務DD)です。買収前に対象会社の労務管理実態を精査し、リスクの種類・規模・発現可能性を評価します。
✓ 労務DDの主要確認項目
☐ 賃金台帳・タイムカード・勤怠管理データの整合性
☐ 残業代計算の適法性(基礎単価・除外賃金・割増率・固定残業代)
☐ 社会保険(健康保険・厚生年金・雇用保険・労災)の加入実態
☐ 雇用契約書の作成・更新状況(労働条件明示義務違反の有無)
☐ 就業規則の届出・周知状況、最終改訂日
☐ 36協定の届出・特別条項の運用実態
☐ ハラスメント案件・労使紛争の履歴(訴訟・労基署是正勧告・労働委員会救済申立等)
☐ メンタルヘルス休職者・労災認定事案の有無
☐ 管理監督者該当性の検証(肩書きと実態の乖離)
☐ 重要ポスト(役員・キーパーソン)の雇用契約条件
6. スキーム選定の実務的考え方
財務・税務の観点では税効果や手続コストでスキームが選ばれることが多いものの、労務リスクの規模は最終的な投資判断に大きく影響します。
株式譲渡が適しているケース
・対象会社の労務管理が適切に行われており、未払い賃金・社会保険未加入等の問題が顕在化していない
・従業員全員を引き継ぐ意思があり、組織の一体性を維持したい
・許認可・取引契約・知的財産権など、法人格に紐づく権利を維持する必要性が高い
事業譲渡が適しているケース
・対象会社に労務リスクが複数存在し、リスク遮断が必要
・特定の事業・特定の労働者のみを承継したい
・労働条件を新たに設定したい(ただし不利益変更となる場合は個別同意が必要)
・対象会社全体の簿外債務を引き継ぐリスクを回避したい
まとめ
株式譲渡と事業譲渡では、労務リスクの承継態様が法的に大きく異なります。財務・税務だけでなく、労務DDによるリスク評価を踏まえてスキームを選定することで、買収後の予期せぬ負債を回避できます。

特に社会保険適用拡大の進行を踏まえると、現時点での未加入だけでなく、将来の段階的拡大に伴う保険料負担増まで視野に入れた試算が不可欠です。

当法人は、M&A検討フェーズの労務DDから、スキーム選定の労務観点からの助言、買収後の労働条件設計・規程整備まで一貫してご支援いたします。
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【根拠法令・参照資料】
会社法第467条以下(事業譲渡)、第748条以下(合併)
民法第625条1項(労働契約の譲渡における承諾)
労働基準法第115条・附則143条3項(賃金請求権の消滅時効、当分の間3年)
健康保険法第193条・厚生年金保険法第92条(保険料徴収の時効2年)
社会経済の変化を踏まえた年金制度の機能強化のための国民年金法等の一部を改正する等の法律(令和7年法律第74号、2025年6月13日成立・6月20日公布)
事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針(平成28年厚生労働省告示第318号、令和8年厚生労働省告示第11号により改正、2026年5月25日適用)

【免責事項】
本記事は2026年5月時点の法令・公表資料に基づく一般的な解説であり、特定事案への適用を保証するものではありません。個別の判断は、必ず社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。
執筆者
三重 英則(みえ ひでのり)
社会保険労務士法人T&M Nagoya 社員
特定社会保険労務士・経営心理士・経営法曹会議賛助会員
名古屋を拠点に、中小企業から上場準備企業まで幅広い経営者の伴走者として、労務監査・就業規則・労働紛争解決を中心とした実務支援を行う。誠・Think more・伴走を価値観に、「経営者と共に歩き、最善の解を導き出す」ことを使命としている。