国内M&A件数が過去最多水準で推移する一方、買収される側の労働者保護の枠組みには制度的な濃淡があります。とりわけ株式譲渡(TOB等)では、会社分割における労働契約承継法のような明確な事前説明スキームが存在せず、労働者が情報から取り残されるリスクが指摘されています。
本記事では、現行法における労働者保護の構造、2026年5月25日施行の事業譲渡等指針改正、厚労省で進む議論の方向性、そして企業が現時点で取り得るべき実務対応について整理します。 1. M&Aスキーム別の労働者保護枠組み
M&Aのスキームごとに、労働者保護のための法的枠組みは異なります。これを整理すると、現行制度の「濃淡」が明確になります。
2. 事業譲渡等指針の改正(2026年5月25日施行)
2026年1月20日、厚生労働省は「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(平成28年厚生労働省告示第318号)を改正する告示(令和8年厚生労働省告示第11号)を発出しました。本改正は2026年5月25日から適用されます。
改正の主な内容は、事業性融資の推進等に関する法律(令和6年法律第52号)により創設された「企業価値担保権」の実行手続における管財人が留意すべき事項を追加するものです。
この改正は、令和6年通常国会における事業性融資推進法案の衆参財政(財務)金融委員会附帯決議を受けたものです。なお、本改正でも対象は事業譲渡・合併に限られており、株式譲渡(TOB等)に係る制度的空白は引き続き残されています。
3. 株式譲渡における「制度の隙間」
株式譲渡は対象会社の法人格に変更がなく、労働契約も形式的には継続するため、従来「労働者への直接的影響は限定的」と整理されてきました。しかし実務上、株主の交代は経営方針の転換、組織再編、労働条件の変更を伴うことが多く、労働者の処遇に重大な影響を及ぼします。
特にTOB(株式公開買付け)では、買付期間中に労働者への情報開示の枠組みが法定されておらず、買収後の方針が明らかになるまで労働者は不安定な立場に置かれます。会社分割であれば労働契約承継法に基づく通知・協議のプロセスがありますが、株式譲渡にはこれに相当する制度がありません。 4. 朝日放送事件 ―労組法上の使用者概念の拡張
この「制度の隙間」を判例法理として部分的に補う可能性があるのが、朝日放送事件・最高裁平成7年2月28日判決(民集49巻2号559頁)です。
同判決は、テレビ放送事業を営む会社が請負会社から派遣される労働者に対し、業務全般を実質的に支配・決定していた事案において、労働組合法上の「使用者」概念について次のように判示しました。「雇用主以外の事業主であっても、雇用主から労働者の派遣を受けて自己の業務に従事させ、その労働者の基本的な労働条件等について、雇用主と部分的とはいえ同視できる程度に現実的かつ具体的に支配、決定することができる地位にある場合には、その限りにおいて、右事業主は同条の『使用者』に当たるものと解するのが相当である」。 本判決の射程について学説では、派遣労働の事案にとどまらず、親会社・支配株主など労働条件を実質的に支配・決定し得る地位にある者一般に妥当する判断枠組みとして援用する見解が有力です。この立場に立てば、買収企業が買収後の方針として労働条件の変更を実質的に決定し得る地位にある場合、買収企業自身が労組法上の使用者として団体交渉応諾義務を負う可能性が指摘されています。ただし、最高裁がM&A・買収企業の使用者性について直接これを判示した判例ではない点に留意が必要です。
5. 厚生労働省の議論動向 ―法制化も視野に
2025年に入り、M&Aにおける労働者保護の議論が活発化しています。報じられているところでは、厚生労働省は2025年3月以降、国会附帯決議を受けてM&A全般における労働者保護の強化策の再検討を開始しました。
議論の引き金となった事案として、ニデックによる牧野フライス製作所への株式公開買付け(2024年12月27日提案・2025年5月8日撤回)が挙げられます。事前協議を経ない買収提案に対し、対象会社の労働組合が92.1%の反対を表明し、産業別労組(JAM)も反対声明を発出するなど、TOB局面における労働者保護の不備が広く論じられました。 厚労省の検討は、事業譲渡等指針の改正にとどまらず、株式譲渡(TOB等)も射程に入れた制度設計の見直しを視野に入れているとされ、今後の動向はM&A実務に大きな影響を及ぼす可能性があります。労働者側からは法的ルールの強化が求められる一方、経営側からは「厳格な規制は円滑な事業再編を妨げ、かえって雇用機会を損なう」との懸念も示されており、バランスの取れた制度設計が課題となっています。 6. 「事前説明」が経営にもたらす実務的価値
法的義務の有無を超えて、M&Aにおける労働者への事前説明は経営判断としても合理性があります。説明不足が引き起こす実務的リスクは以下のとおり指摘されています。
7. 企業が今すぐ取り組むべき実務対応
8. 経営者へのメッセージ ―「人」を中心に据えるM&A
M&Aは数字の取引である前に、人と人との関係の組み替えです。財務的に成立した取引が、人材流出・労使紛争・PMI失敗によって投資判断として失敗に終わる事例は決して少なくないと指摘されています。
法制度は今、事業譲渡等指針の改正を起点として、株式譲渡における労働者保護の欠落部分を埋める方向で動き始めています。先取りして「事前説明」と「誠実協議」を実践する企業は、紛争予防だけでなく、統合フェーズでの人材定着とエンゲージメント維持という、定量化しにくいが本質的な価値を獲得します。 当法人は、M&A検討段階での労務デューデリジェンス、事前説明計画の策定、労組対応、PMIフェーズの人事制度設計など、労務面での伴走支援をご提供しています。「経営者と共に歩き、最善の解を導き出す」ことが、当法人の役割です。 まとめ
現行法はM&Aスキームごとに労働者保護の濃淡があり、特に株式譲渡における事前説明枠組みの整備は今後の制度課題です。2026年5月25日施行の事業譲渡等指針改正は企業価値担保権の実行手続を対象としたものですが、TOB局面の制度的空白は引き続き残されています。朝日放送事件の判断枠組みは判例法理として一定の補完機能を果たし得ますが、最高裁が買収企業の使用者性について直接判示したわけではなく、実務では下級審・労委命令の動向にも注意が必要です。
厚労省の議論動向を注視しつつ、現時点から「事前説明」と「誠実協議」を経営の標準作業として組み込むこと——それが、M&A時代の労務管理の本質です。
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