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作成日:2026/05/09
退職一時金は「廃止」できるか ――王子HD事例から考える退職金制度の再設計と法的論点
HR STRATEGY / 退職金制度

退職一時金は「廃止」できるか
――王子HD事例から考える退職金制度の再設計と法的論点

人事戦略 退職金 不利益変更 就業規則

製紙国内最大手の王子ホールディングス(以下「王子HD」)が、2026年4月以降に入社する新卒・中途社員を対象に退職一時金を廃止し、その原資を基本給上乗せまたは企業型確定拠出年金(DC)の拠出増額に振り替える制度改革を実施しました。大企業による退職一時金の廃止はきわめて異例であり、終身雇用を前提とした日本型雇用モデルに大きな一石を投じる動きとして注目されています。本稿では、この事例を題材に、退職金制度の再設計を検討する経営者・人事担当者が押さえるべき法的論点と実務上の留意点を整理します。

📌 本記事の要点
  • 王子HDは新規入社者のみを対象に退職一時金を廃止し、既存社員には影響を与えない設計を採用
  • 退職金の不利益変更には「高度の必要性」が必要とされ、裁判例の壁は依然として高い
  • 既存社員に変更を及ぼす場合、既得権部分の遡及減額は認められず、自由意思に基づく同意取得も慎重を要する
  • 中小企業が制度見直しを検討する際は、新規入社者と既存社員の取り扱いを分離する手法が現実的な選択肢となり得る

王子HDが踏み切った制度改革の全体像

報道各社によれば、王子HDの今回の制度改革は単なるコスト削減ではなく、採用競争力の強化と人材ポートフォリオの転換を狙った戦略的な再設計であると位置付けられます。具体的には、2026年4月以降入社の新卒・中途社員を対象に、従来の退職一時金制度を廃止し、その原資を基本給上乗せ(毎月の月給に反映)または企業型DCの拠出増額として支給する選択制を導入しています。注目すべきは、既存社員の退職一時金制度には変更を加えていない点です。

背景には、同社の人材戦略の構造変化があります。中途採用比率は2021年度の約1割から2025年度には約5割へと急拡大しており、勤続年数が長いほど給付額が増える退職一時金の仕組みは、中途採用人材にとっては相対的に不利な制度となっていました。また、初任給は前年比約1割増の27万2000円〜28万円に設定され、月給を重視する若年層の採用市場ニーズに応える形となっています。

▼ 大企業の退職一時金廃止は極めて異例

厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」によれば、過去3年間に退職一時金制度を廃止した企業は全体の約0.1%にとどまり、従業員1000人以上の大企業では事例すら確認されていませんでした。今回の王子HDの判断は、日本企業の退職金制度史において転換点となる可能性があります。

なぜ今、退職一時金の見直しが議論されるのか

退職金制度の見直しが議論される背景には、いくつかの構造的な変化があると考えられます。

第一に、雇用流動化の進展です。終身雇用を前提とした「勤続年数に応じて退職金が増える」設計は、人材の出入りが活発化する現代において、採用市場での魅力を相対的に低下させる要因となります。第二に、制度の不透明性です。三井住友トラスト・資産のミライ研究所の調査では、自身の退職金水準を把握していない人は62%に上るとされており、複雑な計算式に基づく退職金は社員のモチベーション喚起効果が限定的になりつつあります。第三に、企業側の財務リスクです。退職一時金制度や確定給付型企業年金は、長期にわたる支払債務を企業が負担する仕組みであり、低金利環境下での運用難や長寿化による支払期間の延長といったリスクを抱えています。

ただし、これらの「廃止メリット」だけを根拠に制度を変更すると、後述する法的リスクを軽視することになりかねません。退職金制度の見直しには、慎重な法的設計が不可欠です。

退職金制度の見直しに潜む「不利益変更」の法的論点

退職金制度を見直す際に最も注意すべきは、労働契約法上の「不利益変更」の法的論点です。

労働契約法第9条は「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない」と定め、原則として労働者の合意が必要であるとしています。例外として、同法第10条は、変更後の就業規則を周知し、かつ変更が合理的なものであるときは、合意がなくても変更が認められる旨を定めていますが、この「合理性」の判断は厳格です。

最高裁判所は、第四銀行事件判決(最判平成9年2月28日)において、「賃金、退職金など労働者にとって重要な権利、労働条件に関し実質的に不利益を及ぼす就業規則の作成又は変更については、当該条項が、そのような不利益を労働者に法的に受忍させることを許容することができるだけの高度の必要性に基づいた合理的な内容のものである場合において、その効力を生ずる」と判示しています。つまり、退職金の不利益変更には通常の必要性を上回る「高度の必要性」が要求され、これは経営状態が客観的に逼迫しているなど、限定的な場面でしか認められないと考えられています。

さらに、山梨県民信用組合事件判決(最判平成28年2月19日)では、たとえ労働者から個別の同意書を取得していても、退職金規程の変更について十分な情報提供や説明がなされていなければ、その同意は「自由な意思に基づくもの」とは認められず無効になり得るとの判断が示されました。同意書への署名押印という形式だけでは足りず、不利益の内容と程度を労働者が具体的に理解したうえで判断したと客観的に認められる事情が必要であるという考え方です。

王子HDの設計が「賢い」理由

これらの法的論点を踏まえると、王子HDの制度設計には合理性があると評価できます。同社は、既存社員の退職一時金制度には変更を加えず、新規入社者のみを廃止対象としました。この設計には大きな意味があります。

新規入社者は、入社時点で「退職一時金が存在しない労働条件」のもとで雇用契約を締結するため、そもそも「不利益変更」の問題が発生しません。雇用契約成立時に提示された労働条件は、当事者の合意によって決まるためです。一方、既存社員には現行制度を維持することで、不利益変更の判例法理に抵触するリスクを回避しています。中途入社者であっても、入社時点での合意に基づくため法的問題は生じにくい構造です。

▼ 退職金制度見直しの2つのアプローチ比較

比較項目 A:全社員一律で廃止・減額 B:新規入社者のみ廃止(王子HD型)
対象者 既存社員を含む全社員 改正日以降の新規入社者のみ
法的位置付け 就業規則の不利益変更に該当 新規労働契約の条件設定(不利益変更ではない)
必要な要件 高度の必要性/合理性、または個別同意(自由な意思に基づくこと) 就業規則の改定および新規入社者への明示
既得権の扱い 過去の勤続分は遡及的に減額不可 既得権は発生しない(新規契約のため)
紛争リスク 高い(合意の有効性をめぐる訴訟リスク) 低い(既存社員に影響を与えないため)
効果が出るまで 短期的(即時に総人件費に反映) 長期的(採用市場でのアピール効果は即時、財務効果は段階的)

このように比較すると、Bのアプローチは時間こそかかるものの、法的リスクを最小限に抑えながら制度を移行できる現実的な選択肢であることがわかります。

中小企業が押さえるべき実務上のポイント

退職金制度の見直しは、大企業だけの話ではありません。むしろ、退職金制度の運営負担が経営に直接影響しやすい中小企業こそ、制度の点検が必要な場合があります。当法人が制度設計のご相談を受けるなかで、特に重要と考えるポイントを整理します。

✓ 制度見直し前のチェックリスト
  1. 債務規模の正確な把握:現時点で全社員に退職金規程に基づき発生している債務総額を試算する
  2. 既得権の確認:規程改定日時点で既に発生している退職金請求権は遡及的に減額できないことを前提に設計する
  3. 新規入社者と既存社員の取扱い分離:法的リスクを抑えるなら、改定日を境に適用ルールを分けることが有効
  4. 経過措置・代償措置の検討:仮に既存社員にも変更を及ぼす場合、月例賃金の引き上げや企業型DCへの振替など、不利益緩和措置を必ず併せて設計する
  5. 選択制度の活用:DC・前払い・現行維持といった選択肢を提示することで、社員ごとのライフプランに応じた制度移行が可能になる
  6. 就業規則改定手続の遵守:過半数代表者からの意見聴取、所轄労働基準監督署への届出、社員への周知という法定手続きを漏れなく実施する
  7. 個別同意取得時の情報提供:山梨県民信用組合事件判決を踏まえ、各社員が具体的にどのような不利益を被るかを書面で明示し、自由な意思に基づく同意を確保する

「廃止」が唯一の答えではない

退職一時金の廃止という王子HDの決断は、終身雇用モデルの転換を象徴する出来事として注目されています。しかし、すべての企業がこの方向に進むべきだと結論づけるのは早計です。退職金制度には、長期勤続を促す機能、社員の老後保障機能、企業ブランドとしての魅力付与機能など、複数の役割があります。自社の人材戦略・財務状況・社員構成・採用市場での競合状況を踏まえ、最適解を検討することが肝要であると考えられます。

当法人は、退職金制度の現状診断、制度見直しの方針策定、就業規則改定、社員説明会の設計、同意書の作成・運用支援まで、経営者と並走しながら最善の解を一緒に見つけ出すご支援を提供しています。「制度疲労を感じている」「採用競争力を高めたい」「将来の財務負担を見直したい」とお考えの経営者の皆様は、ぜひ一度ご相談ください。

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【根拠法令・参考判例】
  • 労働契約法第8条(労働契約の内容の変更)
  • 労働契約法第9条(就業規則による労働契約の内容の変更)
  • 労働契約法第10条(合理的な労働条件が定められている就業規則の周知)
  • 労働基準法第89条(作成及び届出の義務)、第90条(作成の手続)
  • 第四銀行事件(最判平成9年2月28日)
  • 山梨県民信用組合事件(最判平成28年2月19日)
  • 厚生労働省「令和5年就労条件総合調査」
【免責事項】

本記事は、報道された情報および一般的な労働法令・判例を基に作成した解説記事であり、個別の事案に対する法的助言ではありません。退職金制度の見直しを実際に検討される際は、自社の事情に即した個別判断が必要となるため、社会保険労務士、弁護士等の専門家にご相談されることを推奨いたします。記事中の見解は当法人の私見を含み、最終的な判断は読者ご自身の責任において行ってください。

EXECUTIVE PROFILE
三重 英則(みえ ひでのり)
社会保険労務士法人T&M Nagoya 代表社員
特定社会保険労務士/経営心理士/経営法曹会議賛助会員
「経営者と共に歩き、最善の解を導き出す」を使命に、名古屋を拠点として中小企業から上場準備企業まで、就業規則設計、労務監査、人事制度構築、労務トラブル対応まで一気通貫で支援。
VALUES:誠実・Think more・伴走