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作成日:2026/05/02
従業員の横領で社会保険料が払えない ──年金事務所の差押えから会社を守る「猶予制度」とは
CATEGORY / 社会保険・実務対応

従業員の横領で社会保険料が払えない
──年金事務所の差押えから会社を守る「猶予制度」とは

大阪の運送会社で起きた「強引徴収」訴訟が示した制度運用の課題と、経営者がいま備えておくべき実務対応

2026年4月、MBSテレビが報じた一件の訴訟が、社会保険料徴収のあり方に大きな波紋を広げています。社員による約5,000万円の横領被害を受けた大阪の運送会社が、厚生年金保険料の納付猶予を申請しようとしたところ、年金事務所からこれを認められず、売掛金の差押えにより倒産危機に陥ったというものです。当法人にも、社員不正や急激な業績悪化に伴う社会保険料の納付に関するご相談は少なくありません。本稿では、この事案を題材に、経営者が知っておくべき「猶予制度」の仕組みと、いざというときの対応策を整理します。

📌 本記事のポイント

● 厚生年金保険料には法律で「換価の猶予」「納付の猶予」という制度が設けられている

● 大阪の運送会社では、横領被害を理由とする猶予が認められず差押えに発展、厚労省・社会保険審査会が2025年12月、5件中4件の差押えを取り消す裁決

● 同社の独自調査では、全国50か所の年金事務所のうち、横領被害が猶予対象になると明確に説明した事務所は5か所(約1割)のみ

● 経営者は制度の存在を知り、被害発生時には書面による速やかな猶予申請証拠保全を確実に行う必要がある

1.何が起きたのか──大阪・運送会社の事案

大阪府高槻市の運送会社では、創業から20年間黒字経営を続けていたところ、2023年10月に経理担当の男性社員が会社の納付すべき税金や厚生年金保険料など約5,000万円を横領していたことが発覚しました。この社員は中国の妻に送金していたと供述したものの、約3か月後に心臓病で急死し、被害の詳細解明と回収はきわめて困難な状況に陥りました。

同社は税務署や市役所、労働局に事情を説明したところ、いずれも納付の猶予に応じてくれました。しかし約3,000万円を滞納していた厚生年金保険料については、管轄の年金事務所が「猶予する理由がない」「横領は会社の事情」として猶予を認めず、2024年8月から取引先に対する売掛金の差押えを開始。これにより取引先が7社から2社に激減し、運転手30名のうち20名以上を解雇せざるを得なくなりました。

同社は2024年12月に国と日本年金機構を相手取って大阪地方裁判所に提訴するとともに、社会保険審査会にも審査請求を行ったところ、2025年12月、審査会は5件の差押えのうち4件について「横領被害によって納付を猶予できることを考慮せず行った」として取り消す裁決を下しました。

2.厚生年金保険料には2種類の「猶予制度」がある

厚生年金保険料の徴収については、厚生年金保険法第89条により「国税徴収の例による」と定められており、これに伴って国税通則法・国税徴収法の規定が準用されます。具体的には、事業主の申請により次の二つの猶予制度を活用できます。

区分 換価の猶予 納付の猶予
主な要件 保険料を一時に納付すると事業継続または生活維持が困難になるおそれがあり、納付に対する誠実な意思があると認められる場合 @災害・盗難等で財産に損失を受けた、A事業主等の病気・負傷(個人事業主と生計を一にする親族に限る)、B事業の廃止・休止、C事業に著しい損失を受けた、D届出遅延で過去分が発生した いずれかに該当し、一時的に納付困難な場合
申請期限 納期限から原則6か月以内 事由発生後速やかに(明示的な期限規定なし)
猶予期間 原則1年以内(最長2年まで延長可) 原則1年以内(最長2年まで延長可)
主な効果 分割納付が可能/差押え財産の換価(売却)猶予/延滞金の一部免除 猶予期間中の納付猶予/新たな差押え禁止/延滞金の全部または一部免除
提出先 管轄の年金事務所 管轄の年金事務所を経由して地方厚生(支)局長へ

※出典:日本年金機構「厚生年金保険料等の猶予制度」、厚生労働省「厚生年金保険料等の納付猶予制度について」をもとに当法人作成。

3.「横領被害」は猶予事由に該当するのか

本事案の最大の論点は、「従業員の横領」が納付の猶予事由に当たるかどうかです。日本年金機構が公表する納付の猶予の要件は前記表のとおりですが、第1号「財産について災害を受け、または盗難にあったこと」の解釈について、横領被害が「盗難」に類するものとして含まれるかが問題となりました。

国税通則法基本通達 第46条関係の考え方

国税通則法第46条第2項第1号の「盗難」に類する事実として、横領などの犯罪被害により事業主が相当な財産的損失を被ったケースは、第5号(前各号に類する事実)も含めて柔軟に解釈されることが、徴収実務上の取扱いとされています。報道された事案でも、社会保険審査会は「横領被害によって納付を猶予できることを考慮せず行った」と判断し、差押えを取り消しました。

問題は、この解釈が現場で十分に共有されていなかった点にあります。報道された事案では、年金事務所の職員が当初「そんな法律は聞いたことがない」と回答し、後日「勉強不足ですみませんでした」と認めながらも、すでに着手した差押えは止めなかったとされています。さらに同社が独自に全国50か所の年金事務所に電話調査を行ったところ、「横領被害が猶予の対象になる」と明確に説明した事務所はわずか5か所(約1割)にとどまったとのことです。

これは、制度が法令上整備されていても、運用窓口の知識・理解にばらつきがあれば、本来救済されるべき事業主が不利益を被る危険性があることを示しています。経営者の側でも、制度の存在と適用範囲を理解し、自ら主張・申請できる準備が不可欠です。

4.年金事務所の対応に納得できないとき

猶予の不承認や差押え処分に納得できない場合、事業主には次の不服申立ての道が用意されています。厚生年金保険料の徴収に関する処分については、厚生年金保険法第91条第1項および社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条第2項に基づき、社会保険審査官を経ずに直接「社会保険審査会」へ審査請求することができます。

✓ 不服申立て・行政訴訟の主な手続

@ 社会保険審査会への審査請求:処分があったことを知った日の翌日から起算して3か月以内(社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条第2項)。書面または口頭で行うことができ、提出先は厚生労働省内の社会保険審査会。

A 行政訴訟(処分取消訴訟):原則として審査会の裁決送達日の翌日から起算して6か月以内(行政事件訴訟法第14条)。国を被告として提起。

B 国家賠償請求:違法な処分により損害を受けた場合、国家賠償法に基づく損害賠償請求も検討可能。

本事案でも、同社は提訴と並行して社会保険審査会へ審査請求を行い、審査会が差押えの大部分を取り消す裁決を出しました。窓口での口頭のやり取りに納得できない場合、書面での申請・記録化、そして法定の不服申立て手続を活用することが極めて重要です。

5.経営者が今すぐできる予防策と発生時対応

本事案は、社員不正という個別事情に行政対応のリスクが重なれば、20年黒字の優良企業でも倒産の瀬戸際まで追い込まれることを示しました。経営者として備えるべき対応を、予防段階と発生段階に分けて整理します。

✓ 平時の予防策(不正の芽を摘む内部統制)

経理業務の職務分掌:振込実行・帳簿記帳・通帳管理を別人格に分ける。1人で完結させない仕組みづくりが第一歩

銀行印・通帳・ネットバンキング権限の分離管理:承認者と実行者を分け、定期的に第三者が残高確認

納税・社会保険料納付の事実確認:経営者または別ラインの担当者が、納付書・領収書の現物を月次で確認

長期休暇取得義務:経理担当者に連続休暇を取得させ、その間に他者が業務を引き継ぐ仕組みは不正発見の有効策

社外専門家による定期チェック:税理士・社会保険労務士・公認会計士など外部の目を活用

✓ 不正発覚・納付困難発生時の即応策

事実関係の記録化:いつ、誰が、何を行ったか。証拠書類(帳簿・通帳・メール等)を直ちに保全

警察への被害届・刑事告訴:横領(業務上横領罪・刑法第253条)として届出。捜査機関の関与は猶予申請時の被害事実証明にも資する

各納付先への速やかな相談・申請:税務署・年金事務所・労働局・市区町村に同時並行で相談。猶予制度の適用可否を協議

申請は必ず書面で:口頭相談だけでは申請したことにならない。所定の様式(猶予申請書・財産収支状況書・財産目録等)を整え、控えを保管

窓口対応の記録化:相談の年月日・対応者氏名・回答内容を必ず記録。電話の場合も日時と概要をメモ化

専門家との連携:弁護士・税理士・社会保険労務士に早期に相談し、刑事・民事・行政の各局面で戦略を統一

6.まとめ──制度を「使える」ようにしておく備えを

社会保険料の猶予制度は、災害や犯罪被害、急激な業績悪化といった事業主の責めに帰さない事情から会社と労働者を守るために設けられた、いわば「経営の最後のセーフティネット」です。しかし制度があっても、その存在を経営者が知らなければ活用できず、運用する行政側の理解にばらつきがあれば、本来救済されるべき会社が不利益を被ることもあるという現実が、本事案によって浮き彫りになりました。

当法人は、経営理念「顧客のために」のもと、平時の不正防止体制の構築から、いざというときの猶予申請・不服申立てまで、経営者の皆様と並走しながら最善の解を探ってまいります。「うちは大丈夫」と思える時こそ、制度を点検する好機です。社会保険料の納付や社員不正対策にご不安があれば、お早めにご相談ください。

▶ 当法人へのご相談はこちら

社会保険料の納付・滞納処分・社員不正対応のお悩みに、社会保険労務士が真摯に向き合います。

【根拠法令・参考資料】

厚生年金保険法第86条(保険料等の督促及び滞納処分)、第89条(徴収に関する通則)、第91条第1項/国税通則法第46条(納税の猶予の要件等)、第48条(納税の猶予の効果)/国税徴収法第151条(職権による換価の猶予)、第151条の2(申請による換価の猶予)/社会保険審査官及び社会保険審査会法第32条第2項(審査請求の期間)/行政事件訴訟法第14条(出訴期間)/刑法第253条(業務上横領罪)

【免責事項】

本記事は2026年4月時点で公開されている報道・公的資料に基づいて作成しております。記載内容は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の事案については事実関係や証拠状況により結論が異なる可能性があります。具体的な対応にあたっては、社会保険労務士・弁護士など専門家への個別相談をおすすめいたします。

【引用・出典】

・MBSニュース「厚生年金の『強引徴収』で倒産危機に…法で定められた“猶予制度”あるのになぜ?」(2026年4月26日配信)

・日本年金機構「厚生年金保険料等の猶予(換価の猶予・納付の猶予)」

・厚生労働省「厚生年金保険料等の猶予制度について」

・国税庁「国税の納税の猶予制度FAQ」(令和6年11月)

― AUTHOR ―

三重 英則(みえ ひでのり)

社会保険労務士法人T&M Nagoya 代表社員
特定社会保険労務士/経営心理士/経営法曹会議 賛助会員

経営者と共に歩き、最善の解を導き出す。誠実・Think more・伴走を価値観に、人事労務の最前線で経営者の意思決定を支え続けています。