| 裁判例解説 |
代償措置がなくても競業禁止の合意は有効 諭旨退職させた元ユニットリーダー看護師との「退職後2年・商圏内」の合意を、地位と範囲の限定、さらに退職の経緯から有効とした高知地裁 令和7年12月5日判決 |
| 2026年10月5日|社会保険労務士法人T&M Nagoya 三重 英則(特定社会保険労務士) |
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おはようございます。社会保険労務士法人T&M Nagoya(名古屋市中区)の三重英則です。
退職者の競業を禁じる誓約書について、「代償措置を払っていないのだから、どうせ無効だろう」という話を耳にすることがあります。代償措置は裁判所が重視する考慮要素の1つですが、それがないことだけで結論が決まるわけではありません。何を守るための制限か、誰に課すのか、どのような経緯で合意したのか、どこまでを禁じたのかによって、代償措置のない合意でも有効とされることがあります。
今回取り上げる高知地方裁判所令和7年12月5日判決は、その典型例です。訪問看護ステーションを運営する会社が、領収書の偽造や経費の不正使用の疑いを理由に諭旨退職させた元ユニットリーダーの看護師と、退職合意書で「退職後2年間、商圏内の4市で訪問看護事業に関わらない」と合意していました。裁判所は、代償措置が講じられたとは評価できないとしながら、この合意を公序良俗に反せず有効と判断しています。
8月27日の本ブログでは、在職中の競業行為が発覚した後に取得した誓約書をめぐるシーリス元従業員事件(大阪高裁令和7年6月25日判決)を取り上げました。退職後5年・違約金2,000万円の定めが2年・1,000万円の限度に切り縮められた事案です。結論の見え方は正反対のようですが、2件には合意が労働者自身の非違行為を契機として結ばれたという共通点があります。本記事は、この共通点を軸に、裁判所が非違行為の後に結ばれた競業禁止の合意をどう見ているかを整理します。
なお、当法人は判決文の原文を確認できていません。本記事は、労働新聞社の労働判例欄(令和8年9月7日付第3559号14面、ウェブ掲載2026年8月27日、解説は岩本充史弁護士)と、弁護士のウェブサイトに掲載された判決文の抜粋に基づいて解説します。損害賠償請求が最終的に認められたか、認められたとしていくらかは確認できていません。本記事が扱うのは、合意の有効性に関する判断です。
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| 📌 この記事でわかること |
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✓ 高知地裁は、禁止する事業を訪問看護事業、地域を事業所の商圏内の4市、期間を退職後2年間に限った競業禁止の合意について、代償措置が講じられたとは評価できないとしながら、使用者の利益を保護するために必要かつ合理的な範囲にとどまるとして有効と判断したこと
✓ 守られる利益とされたのは、会社の地域連携活動を通じて築かれた利用者や紹介元医療機関等との人的関係であり、裁判所はその要保護性が高いとはいえないとしつつ「相応に保護に値する利益」と評価したこと。利益の弱さを補ったのは、元従業員が事業所の最高位にあったことと、制限が具体的に絞られていたことであり、裁判所はさらに退職の経緯の帰責性にも触れたこと(この判示の必要性には、判例解説で疑問も示されています)
✓ シーリス元従業員事件の大阪高裁も、在職中の競業行為の発覚を踏まえて作成された誓約書を平時の合意と同様には扱わないとしており、非違行為を契機とする合意を合理性の支えとして扱う点で2件は共通すること。結論の差を生んだのは制限の設計の広さであること
✓ 同じ訪問看護の業態でも、書面の合意がなかった事案(大阪地裁令和6年10月1日判決)では、担当利用者19人のうち18人が退職者の事業所に移っても不法行為は否定され、黙示の合意も認められなかったこと
✓ 合意が有効でも、損害を立証できなければ賠償は得られないこと。非違行為の場面で結ぶ合意は、範囲の説明と任意性の記録があって初めて後日の支えになること
競業禁止の合意が生きるかどうかは、代償措置の有無だけでなく、誰と、どのような経緯で、どこまでを約束したかで決まります。
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| 1 事案の概要 |
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本件は、訪問看護ステーションを開設・運営する会社(以下「会社」)が、元従業員の看護師(以下「Y1」)らについて、退職後の競業行為を禁じる特約に違反して訪問看護事業を営んだと主張し、債務不履行に基づく損害賠償等を求めた事案です。労働新聞社の労働判例欄と、弁護士のウェブサイトに掲載された判決文の抜粋から確認できる範囲で整理します。
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| 項目 |
内容 |
| 原告 |
訪問看護ステーションを開設・運営する会社(名称は非公表。労働新聞社は「X社事件」と表記) |
| 被告 |
元従業員の看護師Y1ら(Y1以外の被告が誰であったかと、その者についての判断は確認できていない) |
| Y1の地位 |
看護師として訪問看護業務に従事し、平成29年7月、県内の各事業所の新規利用者の獲得や維持等を担うユニットリーダーに就任。以後約5年間、各事業所における最高位の地位にあった |
| 退職の経緯 |
令和4年6月30日、会社は、領収書の偽造、経費の不正使用の疑いを理由にY1を諭旨退職とした |
| 合意の成立 |
当時の代表取締役が、退職合意書によって競業禁止等の合意を求め、Y1が署名押印した。代表取締役は、禁止される事業が訪問看護事業であること、禁止の範囲が各事業所の商圏内(4市)であることを説明した |
| 合意の内容 |
退職後2年間、会社の書面による事前の同意を得ない限り、各事業所の商圏内(4市)で、会社の事業と競合する事業の起業又は同事業への参画、競合する事業を営む企業への就職(役員への就任を含む)等を行わない。特約の目的には、利用者の氏名等の情報を秘密として保持することも含まれる |
| 退職後の行動と請求 |
Y1は退職後、医療法人の理事に就任した。会社は令和5年3月23日付で、退職合意に違反する旨の書面をY1に送付し、Y1は同年4月4日にその医療法人の理事を辞任した。会社は、Y1らが特約に違反して訪問看護事業を営んだと主張し、債務不履行に基づく損害賠償等を請求した |
| 合意の有効性についての判断 |
高知地方裁判所令和7年12月5日判決。代償措置が講じられたとは評価できないが、使用者の利益を保護するために必要かつ合理的な範囲にとどまっているとして、特約は公序良俗に反せず有効 |
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確認できていない事項を、先に挙げておきます。事件番号、会社の請求額、損害賠償請求の結論と認容額、Y1が理事となった医療法人の事業内容と所在地、Y1が理事在任中に具体的に何をしたか、Y1以外の被告についての判断、諭旨退職の理由とされた不正を判決がどのように認定したか、退職金の取扱い、そして控訴の有無と確定の有無です。労働新聞社の解説も、特約の有効性の部分に絞って紹介したものです。いずれも、推測で補うことはしません。
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| 2 高知地裁の判断 ― 弱い保護利益を、地位と範囲の限定で補った |
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退職後の競業を禁じる合意は、労働者の職業選択の自由(憲法22条1項)を制約するため、その制限が合理的な範囲を超えれば公序良俗(民法90条)に反して無効となります。高知地裁は、特約によって守られる使用者の利益の性質、従業員の退職前の地位、特約によって生じる従業員の不利益の程度、代償措置の有無・内容等を総合考慮し、制限が必要かつ合理的な範囲を超える場合には公序良俗に反し無効となるという枠組みを示しました。フォセコ・ジャパン事件(奈良地裁昭和45年10月23日判決)以来、多くの裁判例が用いてきた考え方と同じ系譜にあります。
判決文の抜粋から読み取れる判断の流れを、順に整理します。
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1 目的と守られる利益 特約の目的は、利用者の氏名等の情報を秘密として保持するとともに、商圏内の利用者や、紹介元である医療機関、居宅介護支援事業所のケアマネジャー等との人的関係の利用を防ぎ、商圏内での事業継続を可能にすることにある。訪問看護では利用者と担当者の信頼関係がサービス継続に重要であり、会社では、地域連携活動を通じて関係を築いた医療機関等から利用者の紹介を受けて契約に至る。つまり利用者は、従業員個人というより会社の活動を通じて獲得されている。この人的関係は日常の業務を通じて得られるもので、会社独自の営業ノウハウによって形成されたとはいえず、要保護性が高いとはいえないとしても、相応に保護に値する利益である。
2 Y1の地位 Y1は約5年間、各事業所の最高位であるユニットリーダーとして利用者との関係を築き、紹介元医療機関等との関係を構築する地域連携活動の立案・実行に携わるなど、各事業所の営業・運営を掌握し、主導する立場にあった。このようなY1が商圏内で競業すれば、利用者の移管や紹介者数の減少が生じ、会社が得られたはずの利益を失う可能性が相応にある。
3 退職の経緯 Y1には、会社の企業秩序に違反した点で退職に至る経緯に帰責性があり、退職後に会社の利益を損なう行為をしないよう、一定の職業選択の自由の制限を受忍すべきである。
4 制限の範囲 禁止される事業は訪問看護事業に限られ、地域は商圏内の4市、期間も2年間と一応限定されている。
5 代償措置と結論 代償措置が講じられたとは評価できない。しかし、営業・運営のノウハウや利用者・関係機関との人的関係を持ち、会社の損害を避けるために一定の制限もやむを得ない立場になったY1に、この程度の制限を課すことは、代償措置がなくとも、使用者の利益を保護するために必要かつ合理的な範囲にとどまる。したがって特約は公序良俗に反しない。
上記は判決文の抜粋を当法人が要約したものであり、判決の原文どおりではありません。
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この判断の構造を天秤にたとえると、会社の側に不利な材料が2つあります。守られる利益の要保護性が「高いとはいえない」と明言されたこと、そして代償措置がなかったことです。裁判所はそれでも合意を有効としました。その差を埋めたのは、Y1が事業所の営業と運営を主導する最高位にあったことと、制限が事業・地域・期間のいずれも具体的に絞られていたことだと読めます。裁判所はこれに加えて、退職の経緯に帰責性があったことにも触れています。これらのどれか1つが欠けても同じ結論になったかどうかは、判決からは分かりません。
見落とせないのは、裁判所が人的関係を守られる利益と認めた理由です。一般に、従業員が自らの能力と努力で築いた顧客との関係は、会社の財産とはいいにくいものです。本判決は、会社では地域連携活動を通じて医療機関等から紹介を受けて利用者を獲得しており、利用者は従業員個人よりも会社の活動を通じて獲得されていると認定したうえで、人的関係を保護の対象としました。人的関係が「会社の組織的な活動の成果」と評価できるかどうかが、保護の可否を左右したと考えられます。
退職の経緯についての判示は、評価が分かれ得る部分です。判決自身が掲げた考慮要素(守られる利益の性質、退職前の地位、不利益の程度、代償措置)には、「退職に至る経緯」という項目は含まれていません。それでも判決は、諭旨退職という経緯を、労働者が制限を受忍すべき事情として述べました。労働新聞社で本判決を解説した岩本充史弁護士は、この判示が必要であったかには疑問があるとしています。当法人も、本件は地位と範囲の限定だけで結論を導けた事案である可能性が高いと考えます。そのうえで、実務上は、裁判所が合意の結ばれた経緯を合理性の判断の中で考慮したという事実そのものに意味があると考えます。これが次の比較の中心になります。
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| 3 シーリス元従業員事件と並べて見える共通点 ― 非違行為の後に結ばれた合意 |
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8月27日の記事で取り上げた大阪高裁令和7年6月25日判決(シーリス元従業員事件)は、交通誘導警備業の会社の統括営業部長で、出向先の総務部長も兼ねていた従業員が、在職中に競業行為をしていたことが発覚した後に作成された誓約書をめぐる事案でした。大阪高裁は、誓約書が従業員の義務違反を踏まえ、その防止などの観点から作成されたものであることを指摘し、義務違反を前提とせずに労働契約で競業避止義務を定めた場合と同様に解することはできないとして、合意の合理性を肯定する前提に置きました。
高知地裁の「退職の経緯に帰責性がある以上、一定の制限を受忍すべき」という判断と、大阪高裁の「義務違反を踏まえて作成された合意は、平時の合意と同じには扱わない」という判断は、表現は違っても同じ方向を向いています。労働者自身の非違行為を契機として結ばれた合意について、裁判所はその経緯を合意の合理性を支える事情として扱っているということです。もっとも、高知の事案でこの判示が結論に不可欠だったかには前述のとおり疑問があり、2件だけから「非違行為の後の合意は有効とされやすい」という一般則を導くのは早計です。
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| 観点 |
高知地裁 令和7年12月5日判決 |
大阪高裁 令和7年6月25日判決(シーリス元従業員事件) |
| 業種 |
訪問看護 |
交通誘導警備業、道路舗装工事業(原告3社) |
| 労働者の地位 |
事業所の最高位(ユニットリーダー)。営業・運営を掌握し主導 |
統括営業部長、出向先の総務部長。積算方法や取引先情報に接する立場 |
| 合意の契機 |
領収書偽造・経費不正使用の疑いによる諭旨退職の際の退職合意書 |
在職中の競業行為が発覚した後の誓約書 |
| 制限の内容 |
退職後2年、商圏内の4市、訪問看護事業(違約金の定めの有無は確認できていない) |
在職中と退職後5年、違約金は2,000万円を下限 |
| 代償措置 |
講じられたとは評価できない |
固有の代償措置はない。月約36万円の給与と、社宅・社用車・携帯電話の貸与が考慮された |
| 非違行為の扱い |
退職の経緯の帰責性から、一定の制限を受忍すべきとした |
義務違反を踏まえて作成された合意は、平時の合意と同様には解せないとした |
| 結論 |
特約全体を有効 |
期間は退職後2年、違約金は1,000万円の限度で有効。在職中の競業行為を対象とする違約金の部分は労働基準法16条により無効 |
| 確定状況 |
1審判決。控訴の有無は確認できていない |
8月27日の記事の時点で上告受理申立て中とされており、その後の結論は確認できていない |
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では、なぜ一方は合意がまるごと生き残り、他方は切り縮められたのか。表を見れば、差は非違行為の有無ではなく、制限の設計の広さにあります。高知の合意は、事業・地域・期間を当初から具体的に絞っていました。シーリスの誓約書は、退職後5年という長い期間と2,000万円を下限とする違約金を定め、在職中の行為まで違約金の対象にしていました。大阪高裁は、非違行為を踏まえた合意であることを合理性の前提に置きながら、なお期間と金額を切り縮めています。
ここから導かれるのは、非違行為の経緯は制限を正当化する方向に働くが、過大な制限まで救うものではないという整理です。非違行為が発覚した場面は、会社が強い条件を求めたくなる場面でもあります。しかし、そこで範囲を広げすぎれば、せっかくの経緯の支えがあっても合意は削られます。当法人は、2件の違いを「逆方向の判断」ではなく、同じ判断枠組みの中で制限の設計が結論を分けたものと理解しています。
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| 4 合意がなかったらどうなるか ― 同じ訪問看護の業態での対照例 |
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書面の合意があることの意味は、合意がなかった事案と並べるとよく分かります。同じ訪問看護の業態で、大阪地方裁判所令和6年10月1日判決(あもる訪問看護ステーション事件、労働判例ジャーナル155号34頁)があります。弁護士事務所のニューズレター等の紹介によれば、次のような事案です。
訪問看護事業を営む会社の事業所で働いていた看護師が平成29年8月31日に退職し、その翌日から、元の事業所から約600メートルの場所に開設された別会社の事業所で訪問看護を始めました。別会社は元の事業所の電話番号を引き続き使い、看護師が担当していた利用者19人のうち少なくとも18人が、元の会社との契約を解除して別会社と契約しました。元の会社は、不法行為と、黙示の競業避止の合意への違反を主張して損害賠償を求めましたが、裁判所はいずれも否定しました。
不法行為については、退職者の競業行為が社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で元の雇用者の顧客を奪ったとみられる場合に限り不法行為となるとする最高裁平成22年3月25日判決を引用したうえで、従前訪問を担当し利用状況を把握していた看護師による訪問看護を利用者が希望するのはごく自然であるなどとして、違法性を否定しています。黙示の合意については、使用者に競業避止義務が必要なら雇用契約書に条項を入れることは比較的容易であり、職業選択の自由を制約することに照らすと黙示の合意の成立は慎重に検討すべきであるとして、認めませんでした。
担当利用者の9割以上が移っても、書面の合意がなければ会社は責任を問えなかった。高知の会社は、書面の合意があったからこそ、合意の有効性という土俵で争うことができました。2つの判決を並べると、訪問看護・介護のように利用者が担当者についていきやすい業態では、合意を書面で取っておくことの価値が特に大きいことが分かります。
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| 5 本判決の射程と限界 |
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本判決を「代償措置はいらない」という一般論として受け取るのは誤りです。射程を考えるうえで押さえておくべき点が3つあります。
第1に、合意が有効であることと、損害賠償が認められることは別です。合意違反による損害賠償を得るには、違反行為の存在と、それによって生じた損害とその額を会社が立証しなければなりません。本件で会社の請求がどこまで認められたかは確認できていません。「合意が有効とされた」ことを、「賠償が取れた」ことと読み替えてはなりません。
第2に、本件は、事業所の最高位にあった者、非違行為による諭旨退職、事業・地域・期間の具体的な限定という3つの事情が重なった事案です。入社時や平時に一般の従業員から一律に取得する誓約書に、代償措置のないまま同じ結論が及ぶとは限りません。8月27日の記事でも、シーリス元従業員事件の誓約書が事後型であったことから、平時の予防的な誓約書に同じ基準がそのまま及ぶとは限らないと指摘しました。本判決にも同じ留保が当てはまります。
第3に、本判決は1審の判決であり、控訴の有無と確定の有無は確認できていません。退職の経緯についての判示は、判例解説でも必要性に疑問が示されており、上級審や他の裁判所が同じ評価をするとは限りません。判決は、Y1について企業秩序に違反した点で帰責性があるとしていますが、諭旨退職の理由とされた不正をどのように認定したのかは、抜粋からは確認できません。帰責性の評価は諭旨退職の理由となった事実に依存しますから、その事実の認定が争われれば、合意を支える事情も揺らぐことになります。
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考えられる反論
退職の経緯の帰責性を有効性の判断に取り込むことには、判例解説でも必要性に疑問が示されているほか、労働者の側からも反論が考えられます。守られる利益の大きさは、労働者が不正をしたかどうかとは関係がないはずであり、帰責性は懲戒処分や損害賠償で評価すべき事情であって、退職後の職業選択の自由を制限する根拠にするのは筋が違う、という反論です。また、処分の場面で会社から示された合意書は、拒否すればより重い処分になるのではないかという懸念から署名されやすく、形式的な合意の背後にある任意性を慎重に見るべきだという指摘もあり得ます。本判決がこれらの反論にどう答えたかは、抜粋からは確認できません。控訴審や他の裁判例で判断が分かれる可能性があることは、念頭に置いておく必要があります。
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| 6 会社が備えるべきこと |
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3つの判決から、会社が今から整えられることを整理します。
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備え1 誰に課すかを、地位と職務で決める
本判決がY1への制限を正当化した中心は、事業所の営業と運営を主導する最高位にあったことでした。全従業員に同じ誓約書を求めるより、事業所の責任者、利用者や紹介元との関係構築を担う者、営業の中核を担う者に対象を絞り、その地位と職務に見合った内容にするほうが、有効とされる見込みは高まります。対象者を選んだ理由を、社内の記録として残しておくことも大切です。
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備え2 範囲は、自社の事業と商圏で具体的に書く
本件の合意は、禁止する事業を「訪問看護事業」、地域を具体的な4市、期間を2年と特定していました。「同業他社」「全国」「5年」といった抽象的で広い書き方は、シーリス元従業員事件のように切り縮められるか、無効とされるおそれが高まります。ひな形をそのまま使うのではなく、自社の事業所の所在地と実際の商圏に合わせて、地域と事業を書き分けることが必要です。
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備え3 非違行為の場面で結ぶ合意は、説明と任意性を記録する
労働新聞社の解説の事案の概要によれば、本件では、代表取締役が合意を求める際に、禁止される事業が訪問看護事業であること、範囲が商圏内の4市であることを説明していました。処分の場面で結ばれる合意は、後日「署名を強いられた」「範囲を知らされていなかった」と争われやすい場面でもあると考えられます。合意書は範囲を書面上で特定し、内容を口頭でも説明し、検討の時間を与え、控えを交付し、その経過を記録に残してください。あわせて、諭旨退職や懲戒処分そのものを、就業規則の根拠規定と弁明の機会の付与を踏まえて適正に行うことが前提です。処分の前提となる事実や手続が崩れれば、合意を支える「退職の経緯の帰責性」も崩れます。
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備え4 平時の誓約書は、非違行為の支えを当てにしない
大多数の退職は、非違行為とは無関係の自己都合退職です。その場面で効く合意は、本判決の「退職の経緯」という支えを持ちません。そもそもその支えが結論に不可欠だったかにも疑問がある以上、非違行為の場面であっても、合意の有効性は地位と範囲の限定で説明できるように設計しておくべきです。平時に取得する誓約書では、対象者と範囲をより絞り込むとともに、代償措置の設計を検討する必要があります。新たな手当の創設が難しい場合でも、役職手当等に競業避止義務の対価としての性質を持たせる旨を賃金規程や個別の合意に明記しておくことは、主張の足場になり得ます。
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備え5 「会社の活動で築いた関係」であることを記録で示せるようにする
本判決が人的関係を守られる利益と認めたのは、会社が地域連携活動を通じて医療機関等から紹介を受け、利用者を獲得していたからです。逆にいえば、関係構築が会社の組織的な活動によるものだと示す記録がなければ、人的関係は従業員個人の能力と努力の成果と評価されかねません。紹介元の医療機関やケアマネジャーとの連携活動の記録、紹介件数と新規契約数の推移、利用者数の推移を、日頃から会社として残しておくことが、合意の有効性の立証にも、違反があった場合の損害の立証にも役立ちます。違反の疑いを把握したときは、感情的な電話ではなく、合意の条項を特定した書面で指摘するのが基本です。本件でも会社は、合意違反を指摘する書面を令和5年3月23日付で送付し、Y1はその約2週間後に理事を辞任しています。書面での指摘と辞任との因果関係は明らかではありませんが、違反状態を早期に解消させる手段として書面の指摘は有効と考えられます。
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| 7 当法人の視点 |
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本判決から当法人が最も重要だと考えるのは、「代償措置がないから無効」という見方も、「代償措置がなくても有効」という見方も、どちらも一面的だという点です。裁判所は、守られる利益の要保護性が高くないことも、代償措置がないことも認めたうえで、地位と制限の限定という反対側の事情、さらに退職の経緯と比べて結論を出しました。有効か無効かを決めるのは1つの要素ではなく、天秤の釣り合いです。
もう1つは、非違行為が発覚した場面の二面性です。処分と退職の条件を話し合うこの場面は、会社が競業禁止の合意を求めやすく、本判決とシーリス元従業員事件を見る限り、裁判所もその経緯を合意の合理性の判断で考慮しています。一方で、労働者が処分の重さを意識して署名しやすい場面でもあり、任意性が争われやすい場面でもあります。この場面で会社がすべきことは、強い条件を求めることではなく、必要な範囲に絞った条件を、説明と記録を尽くして合意することです。
そして、合意書は紛争の入り口にすぎません。本件の会社が最終的に何を得たのかは、損害賠償の結論を確認できていない以上、分かりません。合意の設計と同時に、損害を立証できる記録を平時から整えておくことが、合意を実際に役立たせるための条件になります。
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当法人の見解
競業禁止の合意について相談を受けたとき、当法人がまず確認するのは、その合意が何を守るためのものか、その利益が会社の組織的な活動の成果として説明できるか、そして誰にどこまでを禁じているかです。代償措置の有無は、その後に天秤の反対側に何を置けるかを考える段階で検討します。順序を逆にして代償措置の有無だけで判断すると、有効な合意をあきらめたり、無効な合意に頼ったりする失敗につながります。
非違行為の場面での合意は、会社にとって有利な材料になり得ます。しかし、その経緯が結論に不可欠だったかには疑問も示されており、それだけに頼る設計は危ういものです。その有利さは、処分の適正さと、範囲の絞り込みと、説明の記録に支えられて初めて生きるものです。合意を強くするのは条件の厳しさではなく、手続の丁寧さと範囲の具体性です。
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| まとめ |
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高知地裁令和7年12月5日判決は、訪問看護ステーションを運営する会社が、領収書偽造・経費不正使用の疑いを理由に諭旨退職させた元ユニットリーダーの看護師と退職合意書で結んだ「退職後2年間、商圏内の4市で訪問看護事業に関わらない」という特約について、守られる利益の要保護性は高いとはいえず代償措置も講じられていないとしながら、事業所の営業・運営を主導する最高位の地位、事業・地域・期間の限定、さらに退職の経緯の帰責性にも触れて、使用者の利益を保護するために必要かつ合理的な範囲にとどまるとして有効と判断しました。合意が結ばれた経緯を合理性の判断で考慮する点はシーリス元従業員事件の大阪高裁と共通し、2件の結論の差は制限の設計の広さから生じています。ただし、退職の経緯についての判示の必要性には判例解説で疑問も示されています。当法人は判決文の原文を確認できておらず、損害賠償の結論、控訴の有無と確定の有無は確認できていません。
当法人は「経営者と共に歩き、最善の解を導き出す」ことを使命としています。競業禁止の合意を誰に、どの範囲で、どの場面で求めるかという設計から、処分の手続と記録の整備まで、実際に機能する形で一緒に整えてまいります。
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【根拠法令】
日本国憲法22条1項(職業選択の自由)/民法90条(公序良俗)、415条(債務不履行による損害賠償)、709条(不法行為による損害賠償)/労働基準法16条(賠償予定の禁止)
【参考判例】
高知地方裁判所令和7年12月5日判決(本記事で取り上げた事案。労働新聞社の労働判例欄「X社事件」(令和8年9月7日付第3559号14面、ウェブ掲載2026年8月27日、解説は岩本充史弁護士)と、弁護士のウェブサイトに掲載された判決文の抜粋に基づくものであり、当法人は判決文の原文を確認できていません。事件番号、損害賠償請求の結論、控訴の有無および確定状況は未確認です)/シーリス元従業員事件・大阪高等裁判所令和7年6月25日判決(労働判例1341号128頁)/あもる訪問看護ステーション事件・大阪地方裁判所令和6年10月1日判決(労働判例ジャーナル155号34頁。弁護士事務所のニューズレター等の紹介に基づく)/最高裁判所平成22年3月25日判決(退職者の競業行為が社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で顧客を奪取したとみられる場合に不法行為となるとした判断)/フォセコ・ジャパン事件・奈良地方裁判所昭和45年10月23日判決(退職後の競業制限の合理性の判断基準)
【免責事項】
本記事は2026年9月時点の情報に基づく一般的な解説であり、個別の法的助言を構成するものではありません。高知地裁判決についての記述は、労働新聞社の労働判例欄と弁護士のウェブサイトに掲載された判決文の抜粋に依拠しており、判決文の原文は確認できていません。判断の流れの要約は当法人によるものであり、判決の原文どおりではありません。シーリス元従業員事件との比較、判断の構造の分析、考えられる反論は、当法人の推論と見解を含みます。本判決は1審であり、控訴の有無および確定状況は未確認です。具体的な事案については、弁護士・社会保険労務士等の専門家にご相談ください。
なお、紛争性のある事案の交渉代理および訴訟代理は、弁護士法72条により社会保険労務士の業務範囲外です(特定社会保険労務士による個別労働関係紛争のあっせん代理等の法定の例外を除きます)。競業禁止の合意に違反した元従業員への損害賠償請求や差止め請求の検討と実行は、弁護士に委任すべき事項です。当法人は、誓約書・退職合意書の設計と就業規則との整合、懲戒・諭旨退職の手続の整備、損害の立証に備えた記録体制の構築を担い、法的措置が必要な局面では提携する弁護士と連携して対応いたします。
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| この記事を書いた人 |
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三重 英則(HIDENORI MIE)
社会保険労務士法人T&M Nagoya 社員(特定社会保険労務士)
特定社会保険労務士/経営心理士/経営法曹会議賛助会員(SRP認証番号第160175号)
法律事務所で約7年間、使用者側・労働者側双方の労働紛争を経験。年間350件以上の相談に対応し、20年以上にわたる紛争解決の実績を持つ。IPO労務監査、M&A労務デューデリジェンス、団体交渉対応など高難度案件を専門とし、「経営者と共に歩き続ける」伴走型の支援を提供している。
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