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作成日:2026/09/18
【裁判例】経費の不正申請でも退職金1000万円超の支払い命令 「全額不支給」が認められる限界と、定年後継続雇用の落とし穴 ― 東京地裁令和8年7月8日判決
裁判例解説 退職金 定年後継続雇用 経費の不正申請でも退職金1000万円超の支払い命令 「全額不支給」が認められる限界と、定年後継続雇用の落とし穴 ― 東京地裁令和8年7月8日判決 2026年9月18日|社会保険労務士法人T&M Nagoya
おはようございます。社会保険労務士法人T&M Nagoya(名古屋市中区)の三重英則です。

「不正な経費申請をしていた従業員に、退職金まで払わなければならないのか」――経営者であれば、そう感じるのが自然かもしれません。しかし、東京地方裁判所は令和8年7月8日、経費の不正申請等を理由に退職金を全額不支給とした会社に対し、1027万2000円の退職金支払いを命じました(労働新聞令和8年8月24日付第3558号2面掲載・2026年8月20日Web配信)。

本稿では、この判決の内容を報道ベースで整理したうえで、@退職金の不支給・減額が認められる限界と、A定年後もそのまま勤務を続けた従業員の退職金の扱いという、二つの実務上重要な論点を解説します。
📌 本記事の要点

・歯科技工業の会社が、経費の不正申請等を理由に営業所責任者の退職金を全額不支給としたところ、東京地裁は懲戒解雇事由・諭旨退職事由のいずれも認めず、1027万2000円の支払いを命じた(令和8年7月8日判決。事実関係は労働新聞の報道による)
・経費に当たる支出を定めた規程がなく運用が本人任せだったこと、20年以上特段の注意処分がなかったことが、「功労を抹消・減殺するほどの行為とはいえない」との評価につながった
・退職金の全額不支給には「永年の勤続の功を抹消してしまうほどの重大な不信行為」が必要というのが確立した判断枠組み(小田急電鉄事件・東京高判平成15年12月11日)
・定年到達後に手続のないまま勤務を継続した本件では、「定年退職」の事実自体が否定され、退職金は最終退職時を基準に自己都合退職として計算するとされた点も、継続雇用時代の実務に重要な示唆を含む
1.事案の概要 ― 20年超勤めた営業所責任者と「全額不支給」
労働新聞の報道によれば、事案の経緯は次のとおりです。なお、本稿執筆時点で判決文は公刊されておらず、以下の事実関係はすべて同紙の報道に基づく整理である点を、あらかじめお断りしておきます。
時期 経緯(報道による)
平成13年9月頃 労働者が、歯科技工業を営む神奈川県内の会社に入社。以後、東京営業所の責任者として勤務
平成31年1月 会社が定年年齢と定める60歳に到達。その後も退職の手続はとられず、同営業所の責任者を続ける
令和5年11月 従業員から「不正な経費申請がある」との指摘を受け、会社が調査を開始
令和5年12月21日 代表者らが営業所を訪問して労働者を問いただし、労働者は、同行していない人物の名前を記載して会食・出張の経費を申請していた事実を認める
令和5年12月28日 労働者が同日付けでの退職を申し出て、翌日以降出社せず
その後 会社は、懲戒解雇事由または諭旨退職事由があるとして、就業規則に基づき退職金を全額不支給に。労働者がこれを不服として提訴
【背景事情】 報道によれば、東京営業所は独立採算制がとられ、労働者には自身の賃金額を決定する権限まで与えられていました。賃金は平成31年1月31日時点で月額118万円、同年4月に112万円、令和5年12月時点で107万円だったとされます。定年到達の前後で待遇が大きく変わらなかったこの実態は、後述する「定年退職の事実」の判断に直結します。
2.裁判所の判断@ ― 「不適切」ではあるが、退職金を奪うほどではない
東京地方裁判所(矢崎達也裁判官)は、懲戒解雇事由・諭旨退職事由のいずれも認められないとして、会社に1027万2000円の退職金支払いを命じました。報道から読み取れる判断のポイントは、次の3点です。

(1)経費のルールがなく、本人任せだった
実際と異なる人物の名前を記載した経費申請について、裁判所は「不適切な行為」であること自体は認めています。しかし、どのような支出が経費に当たるかを定めた規程はなく、その判断は拠点責任者である労働者本人に委ねられていたと指摘しました。そのうえで、別の人物と会食・出張をしたからといって、その費用の支出が当然に会社へ損害を与えたとは認められない、と判断しています。

(2)「不倫関係」との主張は認められなかった
会社は、問題となった会食・旅行は「不倫関係にあったパート従業員との私的なもの」だと主張しました。裁判所は、労働者が当該パート従業員とある程度親密な関係にあり、タイムカードを打刻させないなどの特別扱いをしていた事実は認めつつも、不倫関係にあったとまでは認められないとして、この主張を退けています。

(3)20年以上、特段の注意処分がなかった
労働者は20年以上勤務し、それまで特段の注意処分を受けていませんでした。裁判所はこの点を重視し、20年以上の功労を抹消・減殺してしまうほどの行為があったとまではいえないと評価しています。長年の勤続と処分歴のなさが、退職金請求権を守る決定的な事情として働いた形です。
3.裁判所の判断A ― 「定年退職」の事実はなかった
本件では、労働者側の主張の一部も退けられています。労働者は「平成31年1月に60歳の定年で退職しているのだから、その時点の会社都合による退職金額が支払われるべきだ」と主張しました。

しかし裁判所は、@平成31年2月以降も勤務を継続していたこと、Aその時点で退職金を請求していないこと、B待遇が大きく変わったなどの事情もないことから、本件は再雇用(いったん退職して新たな契約を結ぶ形)ではなく継続雇用であり、定年退職の事実は認められないと判断。退職金は、令和5年12月の退職を基準に、自己都合退職として計算した額になるとしました。

つまり本判決は、会社側には「全額不支給は許されない」という厳しい判断を示す一方、労働者側の「定年時点の会社都合退職金」という主張も認めなかった、双方の言い分を絞り込んだ判決と整理できます。
4.判断枠組みの整理 ― なぜ退職金の不支給はこれほど難しいのか
退職金は法律上当然に発生するものではなく、就業規則(退職金規程)等で支給条件が定められている場合に、賃金として請求権が生じます(労働基準法89条3号の2・11条)。多くの会社の規程には「懲戒解雇の場合は支給しない」といった不支給条項が置かれていますが、裁判所はその適用を厳しく制限してきました。

リーディングケースである小田急電鉄事件(東京高判平成15年12月11日)は、支給条件が明確に定められた退職金は賃金の後払い的性格が強いとしたうえで、その全額を不支給とするには「当該労働者の永年の勤続の功を抹消してしまうほどの重大な不信行為」が必要と判示しました。同事件では、電車内の痴漢行為を繰り返して懲戒解雇された従業員についてすら全額不支給は認められず、本来の退職金の3割の支払いが命じられています。また、全額不支給に至らない場合でも、行為の内容と勤続の功などの個別事情に応じて一定割合の減額があり得る、という減額の枠組みも示されました。

他方で、不支給が適法とされた例もあります。市営バス運転手による運賃の着服等を理由とする退職手当の全部不支給処分について、最高裁は処分の裁量権の逸脱・濫用はないと判断しました(最一小判令和7年4月17日)。公務員の退職手当支給制限処分に関する事案であり、判断枠組みは民間の退職金と同一ではありませんが、事業への信頼を直接損なう着服のような背信行為については、金額の多寡にかかわらず厳しい判断があり得ることを示しています。

本件の労働者の行為は、経費申請の名目に虚偽があるという点で「不適切」ではあったものの、@経費のルール自体が存在せず本人の裁量に委ねられていた、A支出が会社に損害を与えたとまでは認められない、B20年以上処分歴がない、という事情の下では「勤続の功を抹消・減殺するほどの背信行為」には至らない――これが裁判所の評価だったと整理できます。
不支給・減額が認められる方向に働きやすい事情 認められない方向に働きやすい事情
横領・着服など会社に対する直接の背信行為 経費規程など社内ルールの不備・運用の本人任せ
会社への現実的な損害・信用毀損の発生 損害の発生・因果関係を立証できない
過去の懲戒処分歴・再三の注意指導の記録 長期間の無処分・指導記録の不存在(事実上の黙認)
行為の悪質性・常習性の高さ 長年の勤続による功労の大きさ
※裁判例の傾向を当法人が整理したものであり、個別事案の結論は諸事情の総合判断によります。
5.実務への示唆 ― 経営者が押さえるべき4つのポイント
(1)経費規程・精算ルールを整備する
本件で会社の主張が通らなかった最大の要因は、経費に関するルールの不存在です。どのような支出を経費として認めるのか、申請・承認のフロー、領収書等の証憑の要件を規程化し、特に独立採算の拠点や権限が集中するポストには、本人以外の承認・チェックを必ず挟む体制が必要です。「任せていた」という運用は、後日その人物の不正を問う場面で、会社自身の足かせになります。

(2)日常の注意・指導を記録に残す
20年以上にわたり特段の注意処分がなかったことは、本件で労働者の功労を裏付ける事情として働きました。問題行動を把握したら、その都度注意・指導を行い、注意書・指導記録・面談記録などの書面に残すことが、将来の懲戒処分や退職金の減額判断の有効性を支える基礎になります。長年の黙認は、裁判の場では事実上の承認と評価されかねません。

(3)定年到達時の手続を曖昧にしない
本判決のもう一つの重要な教訓です。高年齢者雇用安定法9条は65歳までの雇用確保措置を義務付けており、継続雇用制度には、定年でいったん退職して新たな契約を結ぶ「再雇用」型と、退職の扱いをせず雇用を延長する型があります。本件のように手続のないまま勤務が続くと、「定年退職」の事実自体が否定され、退職金の支払時期や計算基準(会社都合か自己都合か、どの時点の賃金・勤続年数で計算するか)をめぐる紛争の火種になります。退職金規程に定年後継続雇用の場合の支払時期・算定方法を明記し、定年到達者には再雇用契約書等の書面で取扱いを明確にしておくことを強くおすすめします。就業規則・退職金規程の点検については、当法人の就業規則作成・改訂サービスもご活用ください。

(4)「不支給条項があるから不支給にできる」とは考えない
就業規則に不支給条項があっても、自動的に適用できるわけではありません。裁判所は「勤続の功を抹消するほどの背信行為」という高いハードルを課しており、全額不支給が認められるのは、横領・着服のような直接の背信行為により会社に現実的な損害・信用毀損が生じた場合などに限られる傾向にあります。不支給・減額に踏み切る前に、証拠の確保と処分の均衡を慎重に検討する必要があります。すでに従業員との間で紛争化のおそれがある場合は、当法人の労働紛争解決サポートにて、初動からご支援いたします。
✅ 自社を守るためのチェックポイント

✓ 経費として認める支出の範囲・申請承認フロー・証憑の要件を規程化しているか
✓ 独立採算拠点や権限集中ポストに、本人以外のチェックが働く仕組みがあるか
✓ 問題行動への注意・指導を、その都度書面に残しているか
✓ 退職金規程に不支給・減額条項と、定年後継続雇用時の支払時期・算定方法を定めているか
✓ 定年到達者について、再雇用か雇用延長かを契約書等の書面で明確にしているか
6.まとめ
本判決は、「不正をした従業員に退職金を払いたくない」という経営者の素朴な感覚と、裁判所の判断枠組みとの間に大きな距離があることを、あらためて示しました。退職金の不支給・減額は、規程の整備・日常の指導記録・処分の均衡という足元の積み重ねがあって初めて選択肢になり得るものです。あわせて、定年後継続雇用が当たり前になった今、定年時の手続の曖昧さが退職金紛争に直結することも見逃せません。

当法人では、就業規則・退職金規程の整備から、問題社員対応・労働紛争への初動対応まで、経営者に伴走してご支援しています。「うちの規程と運用は大丈夫だろうか」と少しでも感じられた方は、ぜひ一度ご相談ください。
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【根拠法令・出典】
・労働基準法11条(賃金の定義)、89条3号の2(退職手当に関する就業規則の記載事項)、115条(退職手当の請求権の消滅時効・5年)
・高年齢者雇用安定法9条(65歳までの雇用確保措置)
・東京地方裁判所令和8年7月8日判決(歯科技工業の会社に対する退職金請求事件)
 ※出典:労働新聞令和8年8月24日付第3558号2面(2026年8月20日Web配信)。本稿執筆時点で判決文は公刊されておらず、本稿の事実関係は同報道に基づきます。
・小田急電鉄(退職金請求)事件(東京高判平成15年12月11日・労判867号5頁)
 裁判所ウェブサイト:https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail6?id=18545
・懲戒免職処分取消等請求事件(最一小判令和7年4月17日)
 裁判所ウェブサイト:https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=94011
【免責事項】
本記事は、執筆時点で確認できた報道・法令・裁判例に基づく一般的な情報提供を目的とするものであり、個別の事案に対する法的助言ではありません。紹介した裁判例は報道ベースの整理を含み、判決文の公刊等により内容が補正される可能性があります。実際の対応にあたっては、必ず専門家にご相談ください。本記事の利用により生じた損害について、当法人は責任を負いかねます。
執筆者:三重 英則
社会保険労務士法人T&M Nagoya(名古屋市中区) 社員
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