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経済産業省事件 最高裁判決から2年
トランスジェンダー職員のトイレ使用制限「違法」判決が示す職場のSOGI配慮の急所
2026年5月17日 | 社会保険労務士法人T&M Nagoya
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📌 本記事の要点
最高裁第三小法廷令和5年7月11日判決(令和3年(行ヒ)第285号、行政措置要求判定取消・国家賠償請求事件)は、経済産業省に勤務するトランスジェンダー職員に対して執務階の女性トイレ使用を制限した処遇を是認した人事院判定を違法と判断した。判決から間もなく2年を迎える今、この判決がトイレ使用制限という具体的論点を超えて示した「職場における個別配慮」の原則は、SOGI配慮にとどまらず広い射程をもつ。本記事では、本判決の事案・判断理由・補足意見・判決後の動向、そして中小企業を含む全事業主が取り組むべき実務急所を整理する。
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職場におけるトランスジェンダー(性自認が出生時の性別と異なる者)への配慮は、もはや先進企業の特別な取組みではなく、全ての事業場が直面しうる現実的な労務管理課題となっている。トイレ・更衣室・健康診断・社員寮・呼称・服装規定など、性別を前提として運用されてきた人事・労務制度に対して、性自認に応じた取扱いを求める申出が寄せられたとき、企業がどのように合理的な対応を講じるかが問われている。当法人が顧問先企業から相談を受ける場面でも、SOGI配慮の論点は確実に増えている。
原告(上告人)は、経済産業省に勤務する一般職の国家公務員(50代)である。出生時の性別は男性であるが、平成11年頃に性同一性障害の医師の診断を受け、平成10年代以降、女性ホルモンの投与を受けるなど、性自認に従った社会生活を営んできた。健康上の理由から性別適合手術は受けておらず、戸籍上の性別は男性のままであった。
原告は平成21年に経済産業省に対し、女性として勤務すること等の要望を伝えた。経済産業省は検討の結果、原告に対し以下の処遇を決定した。
| 経済産業省が認めた事項 |
経済産業省が制限した事項 |
・女性の服装での勤務 ・女性の休憩室の使用 ・女性の更衣室の使用 ・女性として職務に従事すること |
執務階および隣接階の女性トイレ使用を認めず、2階以上離れた階の女性トイレに限り使用を認める |
原告は平成27年、国家公務員法86条に基づき人事院に行政措置要求を行ったが、人事院は要求を認めない判定(以下「本件判定」)を下した。原告は本件判定の取消し等を求めて訴えを提起した。
| 審級・判決日 |
判断内容 |
第一審 東京地裁 令和元年12月12日 |
人事院判定を違法として取り消し(請求一部認容) |
控訴審 東京高裁 令和3年5月27日 |
人事院判定は違法ではないと判断(一審を取消し) |
上告審 最高裁第三小法廷 令和5年7月11日 |
控訴審を破棄・一審を支持。トイレ使用制限を是認した人事院判定を違法(裁判官5名全員一致) |
※事件番号:令和3年(行ヒ)第285号 行政措置要求判定取消、国家賠償請求事件
最高裁第三小法廷は、今崎幸彦裁判長のほか、宇賀克也・林道晴・渡邉惠理子・長嶺安政の各裁判官で構成された。判決の核心は次の判示にある。
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「遅くとも本件判定時においては、上告人に対し、本件処遇による不利益を甘受させるだけの具体的な事情は見当たらなかったというべきである。そうすると、本件判定部分に係る人事院の判断は、本件における具体的な事情を踏まえることなく他の職員に対する配慮を過度に重視し、上告人の不利益を不当に軽視するものであって、著しく妥当性を欠いたものといわざるを得ない。」
(最判令和5年7月11日 判決理由から)
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@ 性自認に従った社会生活を送る利益の法的位置づけ 最高裁は、原告が「性自認に従って社会生活を送ること」が重要な法的利益であると明確に位置づけた。これは性的少数者の人権保障に関する司法判断として画期的な意義を持つ。
A 「他の職員への配慮」を理由とする制限の評価 控訴審は「他の女性職員への配慮」を強調したが、最高裁は、他の職員から具体的反対や懸念が表明されていないこと、性別適合手術を受けていないことだけを理由に制限することは合理性を欠くことを指摘した。抽象的な懸念だけでは、トランスジェンダー職員のトイレ使用を制限する正当な理由にはならないという判断である。
B 「制限から長期間が経過した」点の評価 説明会から本件判定までの約4年10か月の間、再調査も処遇見直しも検討されなかった点が、違法性判断の重要要素として評価された。一度設定した制限を漫然と継続することのリスクが示されている。
C 補足意見が示した「画一的対応の戒め」 裁判官5名全員が補足意見を付し、「個別の事情に応じた、丁寧な検討が求められる」「事情はさまざまで一律の解決策にはなじまない」との趣旨が複数の補足意見で強調された。本判決は決して「全てのトランスジェンダー職員に全女性トイレ使用を認めるべき」という画一的判断を示したものではない。
D 公的職場の事案だが民間企業にも影響 本判決は経済産業省という公的職場の事案であり、補足意見も「本判決は公共施設の使用の在り方について触れるものではない」と射程を限定している。もっとも、最高裁が示した判断枠組み(性自認尊重の利益、抽象的懸念だけでは制限正当化困難、個別事情を踏まえた検討の必要性)は、民間企業の労務管理にも実質的に参照される基準と理解されている。
判決後、関連する法令・指針の整備が進んでいる。とりわけ重要な参照法令は次のとおりである。
| 法令・指針 |
内容 |
LGBT理解増進法 (令和5年法律第68号) |
令和5年6月23日公布・施行。性的指向およびジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解増進を国・地方公共団体・事業主の責務として位置づける |
パワハラ防止指針 (令和2年厚労告示第5号) |
SOGIハラスメント(性的指向・性自認に関する侮辱的言動)およびアウティング(本人の同意なき暴露行為)をパワハラの一類型として明示 |
改正労働施策総合推進法 (令和7年法律第63号) |
2026年10月1日施行。カスハラ・就活セクハラ対策の事業主義務化に伴い、ハラスメント防止体制の総合的整備が求められる |
なお、判決後も経済産業省での運用見直しには時間を要し、報道によれば庁舎内のすべての女性トイレの使用が職員に認められたのは2024年11月8日になってからとされている。判決の射程と実際の運用反映には相応の時間差があることも、企業実務上は留意すべき事実である。
@ 就業規則・人事制度の点検 「男性社員」「女性社員」という二分法を前提とする規定が、性自認に従った処遇を妨げていないか、就業規則・人事制度を総点検する。健康診断、社員寮、出張時の宿泊割当、慶弔休暇(配偶者の定義)、休憩室・更衣室の運用などが点検対象となる。
A SOGIハラスメント・アウティング防止規定の整備 パワハラ防止指針はSOGIハラスメントおよびアウティング行為をパワハラの一類型として明示している。就業規則および懲戒事由にこれらを明記し、研修で周知することが必須である。
B トイレ・更衣室の運用方針の明文化 「だれでもトイレ」の設置が困難な中小企業でも、性自認に従ったトイレ使用に関する一律禁止は本判決に照らしリスクが高いため、個別申出があった場合の対応プロセス(誰が、どのように検討するか)を社内で予め整理しておくことが重要である。
C 「他の社員からの抽象的懸念」を理由としない判断 本判決の最大の含意は、「他の社員が嫌がるかもしれない」という抽象的懸念だけでは制限正当化が困難であるという点である。具体的な反対表明と漠然とした懸念は明確に区別して判断する必要がある。
D 通称使用・呼称配慮の制度化 性自認に応じた通称(業務上の氏名表記など)の運用ルールを定める。名札、メールアドレス、社員証、社内システム上の表示など、技術的に対応可能な範囲を整理する。
E 個別の意向確認プロセスの確立 トランスジェンダー職員から申出があった際は、人事担当者と当該職員の個別面談を経て、希望と業務上の制約を丁寧にすり合わせる必要がある。本判決の補足意見が示すとおり、画一的対応ではなく個別事情に応じた検討が求められる。
F 管理職・従業員教育の継続的実施 SOGI配慮は一度の研修で終わるものではなく、毎年テーマを変えて継続的に教育することが効果的である。とりわけ管理職には、アウティング防止・SOGIハラ防止・合理的配慮の理解を徹底させたい。
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✓ 当法人から顧問先に伝えたい3つのメッセージ
@ 他社事例の模倣ではなく自社の制度設計を トイレ・更衣室問題は、企業ごとに庁舎構造・業種・就業形態が異なり、画一的な「正解」はない。自社の業務実態と職場環境に即した制度設計が必要である。
A 「制度を作る」より「運用を設計する」 形式的に「だれでもトイレ」を設置しても、運用ルールがなければトラブル予防にはならない。申出受付時の対応プロセス、個別判断の決裁ルート、関係者の守秘義務確認など、運用面の設計こそが重要である。
B LGBT理解増進法と労働施策総合推進法の両輪で LGBT理解増進法(令和5年法律第68号)と労働施策総合推進法のパワハラ防止指針を組み合わせることで、SOGI配慮の法的根拠を明確化できる。2026年10月のカスハラ義務化施行も視野に入れた、統合的なハラスメント防止体制の構築が求められる。
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6. まとめ ― 個別配慮の文化を育てる労務管理へ
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経済産業省事件最高裁判決から間もなく2年。本判決は、トイレ使用制限という具体的論点を超えて、「職場における個別配慮の重要性」という普遍的な労務管理の原則を提示したものと読まれるべきである。
当法人が顧問先企業に伝えるべきは、「LGBTQ対応マニュアル」のような形式論ではなく、「申出があったときに、誰が、どのように、丁寧に検討するか」という運用文化の確立である。本判決の射程は、SOGI配慮にとどまらず、障害者の合理的配慮・育児介護期社員の柔軟な働き方・宗教的配慮・外国人材への文化的配慮など、「個別事情に応じた合理的配慮」が求められる全ての労務管理場面に及ぶものと考えられる。
判決から2年を迎える節目に、改めて自社の人事制度・就業規則・労務運用を総点検し、「画一的処遇から個別配慮へ」という労務管理のパラダイム転換を進めることが、これからの企業に求められている。当法人が掲げる「経営者と共に歩き、最善の解を導き出す」という理念のもと、企業ごとの個別事情に即した制度設計を、これからも顧問先企業の経営者と共に考えていきたい。
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【根拠法令・参考資料】
・最高裁判所第三小法廷 令和5年7月11日判決(令和3年(行ヒ)第285号 行政措置要求判定取消、国家賠償請求事件、民集77巻5号1171頁) ・東京高等裁判所 令和3年5月27日判決 ・東京地方裁判所 令和元年12月12日判決 ・性的指向及びジェンダーアイデンティティの多様性に関する国民の理解の増進に関する法律(令和5年法律第68号) ・労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律 ・厚生労働省「事業主が職場における優越的な関係を背景とした言動に起因する問題に関して雇用管理上講ずべき措置等についての指針」(令和2年厚生労働省告示第5号) ・労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律等の一部を改正する法律(令和7年法律第63号)
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【免責事項】 本記事は2026年5月15日時点の公表情報に基づき作成しています。最新の法令・判例・指針の内容は、必ず原典をご確認ください。個別の事案については、必ず社会保険労務士・弁護士等の専門家にご相談ください。
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【執筆者】
三重 英則(みえ ひでのり)
社会保険労務士法人T&M Nagoya 社員 特定社会保険労務士・経営心理士・経営法曹会議賛助会員
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