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作成日:2026/04/21
【コラム】給与を上げても離職は止まらない 〜「手続き的公正」という見過ごされた経営課題〜
COLUMN / 人事評価

給与を上げても離職は止まらない
〜「手続き的公正」という見過ごされた経営課題〜

行動経済学の知見から読み解く人事評価制度の本質

📌 この記事のポイント

・「給与を上げたのに離職が増えた」――この現象の背景には「手続き的公正」の欠如がある
・人が組織を去る本当の理由は「額」ではなく「どう決まったかわからない」という不透明感
・評価制度の透明性確保は、離職防止策であると同時に労働契約上の義務にも関わる論点である
・最新判例(Xグループ事件・令和7年)でも、評価引下げの理由を説明できない降給は権利濫用で無効とされた
・中小企業こそ「説明できる評価」を仕組み化することで、持続的な信頼関係を築ける

2026年4月16日付のプレジデントオンラインに、多摩大学特別招聘教授・真壁昭夫氏による「給与アップでも待遇改善でもない…行動経済学でわかった『部下の不満を圧倒的に減らす人事評価』の神ワザ」と題する記事が掲載されました。行動経済学の「組織的公正」という概念を軸に、離職防止の本質を論じた示唆に富む内容です。

本稿では、この記事を社会保険労務士の実務的視点から読み解き、中小企業の経営者・人事担当者が明日から何に取り組むべきかを考察します。

1. 「給与を上げれば辞めない」は本当か

記事の冒頭で紹介されるのは、給与水準は競合と比べて遜色ないのに若手の離職が止まらない管理職の悩みです。真壁教授は、人が組織に残るかどうかは「額面」ではなく「組織的公正」――つまり、自分が公平に扱われていると感じられるかどうか――で決まると指摘します。

組織的公正には2つの側面があります。

▼ 組織的公正の2つの側面

@ 分配的公正:給与・昇進といった「結果」が公平かどうか
A 手続き的公正:結果が決まる「プロセス」が公平かどうか

ここで注目すべきは、記事が強調する次の一点です。

「給与を上げても、不満は必ずしも消えない。なぜなら、額よりも『納得感』が問題だからだ」

これは、弊所が顧問先の経営者の皆さまと日々向き合う中で強く実感していることと一致します。賃上げに踏み切ったにもかかわらず離職が止まらない企業では、ほぼ例外なく「なぜあの人の評価が高いのか、自分の評価がなぜこうなったのか、誰も説明できない」状態が放置されています。

2. 行動経済学の知見と労働法実務の接点

記事の内容は行動経済学・社会心理学の文脈で語られていますが、実はこれらの論点は労働法の世界でも古くから重要視されてきました。人事評価は単なる「マネジメントの技術」ではなく、労働契約上の権利義務に直結する経営行為だからです。

裁判例の積み重ねの中で、使用者の人事評価権は「無制限の裁量」ではなく、以下のような観点から合理性が問われることが確立されています。

✓ 裁判例が重視する評価の合理性判断要素

・評価基準の明確性:何を評価するかが事前に示されているか
・評価プロセスの透明性:誰が、どのような手続で評価するか
・一貫した運用:同じ基準が全員に適用されているか
・被評価者の関与:本人の意見を聞く機会があるか
・結果の説明:評価結果の根拠がフィードバックされているか

これらの観点は、賃金の減額や降格を伴う処分の有効性が争われた事案で、具体的に問われてきました。以下、参考となる代表的な判例を紹介します。

【参考判例】Xグループ事件(東京地判令和7年2月17日)

▼ 事案の概要

原告はXグループに雇用されX銀行に出向して勤務していた従業員です。月例給与の改定率は「格付」と「コンピテンシー評価」(社員が発揮した行動に対する評価)で決まり、賞与は「パフォーマンス評価」(目標達成度合いに対する評価)で決まる仕組みでした。原告は令和3年12月査定・令和4年6月査定でマイナス評価を受け、月例給与が引き下げられたことに対し、権利濫用として無効であると主張。従前どおりの査定なら支払われたはずの差額賃金等(合計63万円余)を請求した事案です。

▼ 裁判所が重視した事実

・会社の相対評価分布ガイドラインでは、考課対象者の95%に対して昇給となるプラス評価を行うとされており、降給となる評価は例外的扱いであった
・原告のコンピテンシーに不足があったことを示す個別的事情がうかがえず、以前はB評価(平均)とされていた
・出向元のY本部長は、フィードバック面談で最終評価がC評価に引き下げられた理由を具体的に説明できなかった
・出向先X銀行の乙山社長が3次評価でC評価に修正したが、具体的理由が主張・立証されなかった

▼ 判決結論

東京地裁は、令和3年12月査定のC評価について「評価の根拠とされた事実の基礎を欠」くとして、裁量権の逸脱・濫用があり、同評価に基づく月例給与の降給は権利濫用により無効と判断。差額賃金約15万円余の支払いを命じました(労働新聞令和8年1月26日第3530号14面掲載、弁護士・石井妙子氏解説)。

この判例で特に注目すべきは、「フィードバック面談で、上司が評価引下げの理由を具体的に説明できなかった」という事実が、裁判所の判断を決定的に左右した点です。評価制度の枠組み自体は整っていても、運用の段階で説明責任が果たされなければ、降給処分は権利濫用として無効とされる可能性が高まります。

同判例の解説(労働新聞)でも指摘されていますが、「第三者である司法が、人事評価の内容に踏み込んでその是非を検討するのは難しく、結局、プロセスに問題はないかという点が重視される」というのが、近年の人事評価訴訟の潮流です。評価の中身そのもの(たとえば「5段階のうち3か4か」といった判断)を裁判所が直接判定することは困難ですが、プロセスの透明性・説明責任・一貫性は客観的に判定できるため、そこが訴訟の勝敗を分けるものと考えます。

記事が説く「手続き的公正」という概念は、従業員の納得感を高める心理学的テクニックにとどまらず、使用者側の法的リスクを軽減するための実務要請でもあるのです。労働契約法第3条第5項(権利濫用禁止)や民法第1条第3項(権利濫用禁止)といった一般条項を介して、裁判所は評価プロセスの合理性を厳しくチェックしています。

3. 「ブラックボックス評価」が招く3つのリスク

評価プロセスが不透明なまま放置されると、企業には複層的なリスクが生じます。

リスク@:離職率の上昇とエンゲージメント低下

記事が指摘するとおり、不透明さは「どんな結果であっても不公平」と感じさせます。特にコア人材ほど「正当に評価されていない」と感じた際の離職意思決定が早く、採用・育成コストを一気に失う結果となります。

リスクA:個別労使紛争・訴訟リスク

評価に連動する賞与減額・昇給見送り・降格などについて、上記のXグループ事件のように、評価プロセスの合理性を争点として訴訟に発展するケースがあります。評価資料や面談記録が残っていない、説明責任が果たされていないといった運用上の問題は、訴訟の場で使用者側に不利に働く要因となります。

リスクB:職場の信頼関係と組織文化への悪影響

評価制度の不透明さが組織全体に浸透すると、「どうせ頑張っても評価されない」という諦めが広がり、業務の質の低下、情報共有の停滞、上司への不信感など、組織文化そのものに悪影響が及びます。

4. 中小企業が今すぐ取り組める「手続き的公正」の実装

「うちは中小企業だから、大企業のような立派な評価制度は作れない」――そうお考えの経営者の方も多いと思います。しかし、手続き的公正の本質は制度の精緻さではなく、プロセスを説明できる状態にあるかどうかです。完璧な制度がなくても、以下の取り組みから着手できます。

✓ 今日から始める5つのアクション

@評価基準の明文化
「成果の質」「チームへの貢献」「改善提案の実行」など、3〜5項目で構いません。全員が同じ基準で評価される、という事実を示すことが第一歩です。

A期首面談の実施
評価期間の「入口」で目標とその達成基準を合意しておくこと。期末で初めて基準を知らされる状況こそ、最大の不公平感の源泉です。

B本人の意見陳述・フィードバック面談の機会
自己評価シートを介してでも、面談の場ででも構いません。「一方的に決められた」と感じさせない設計が手続き的公正の核心です。Xグループ事件でも、フィードバック面談で上司が評価引下げの理由を説明できなかったことが、降給を無効とする決定的要因となりました。

Cフィードバックの具体化
「頑張っている」「もう少し」ではなく、「この行動を、この頻度で、この水準で行ってほしい」と具体的に伝えること。

D苦情・再評価の窓口設置
評価に疑問を持った従業員が意見を述べられる場があること自体が、制度への信頼を支えます。

5. 就業規則との整合性という見落としがちな論点

評価制度を整備する際、意外に見落とされがちなのが就業規則との整合性です。人事評価が賃金・賞与・昇格・降格に連動する以上、評価制度は実質的に「賃金の決定に関する事項」(労働基準法第89条第2号)の一部を構成します。

評価制度を新設・変更する際、従来よりも不利益な運用となる場合には、労働契約法第9条・第10条の不利益変更法理が問題となる可能性があります。具体的には、@労働者の受ける不利益の程度、A労働条件の変更の必要性、B変更後の就業規則の内容の相当性、C労働組合等との交渉の状況などの要素に照らした合理性が問われます。「よかれと思って評価制度を入れたら、かえって紛争の種になった」という事態を避けるためにも、制度設計の段階で就業規則改定と併せて検討することが重要です。

💡 実務上のチェックポイント

・評価制度の骨格(評価項目・評価段階・評価期間)は就業規則または賃金規程に位置づけられているか
・評価結果と賃金・賞与・昇格の連動ルールは明文化されているか
・制度変更時に従業員への説明・意見聴取の手続を経ているか
・評価資料(評価シート、面談記録)の保存期間・管理責任者が定められているか

6. T&M Nagoyaの視点――「説明できる経営」という思想

弊所は「誠実・Think more・伴走」をバリューに掲げ、経営者と共に歩むことを使命としています。人事評価の領域で私たちが一貫してお伝えしているのは、「経営者自身が、自分の決定を言葉で説明できる状態をつくる」ことの重要性です。

真壁教授の記事が指摘する「マネージャーは制度の設計者であると同時に、説明者でもある」という言葉は、そのまま中小企業の経営者にも当てはまります。立派な制度を作ることよりも、「なぜこの人を評価したのか、なぜこの結果になったのか」を自分の言葉で語れること――それが従業員の納得感を生み、離職を減らし、結果として法的リスクも下げることにつながります。

給与を上げる前に、評価の「説明責任」を果たす仕組みを整える。これは、賃上げ原資の確保が難しい中小企業にとって、むしろコストを抑えながら組織の求心力を高める合理的な選択でもあります。

7. まとめ――「公正さ」は経営の基盤である

プレジデントオンラインの記事が伝えるメッセージは、社労士の立場から見ても極めて本質的です。人事評価における透明性・一貫性・説明責任は、単なる心理学的テクニックではなく、労働契約法・労働基準法に根ざした経営の基盤であり、同時に従業員との信頼関係を支える土台でもあります。

「賃上げをしたのに辞める」「良かれと思った処遇が不満を生む」――そんな経験をお持ちの経営者の方こそ、評価制度のプロセスを一度棚卸ししてみることをお勧めします。制度そのものの精緻さよりも、説明できる運用になっているかどうか。その一点から、多くのことが見えてくるはずです。

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評価制度の整備・就業規則改定・労務相談を一貫してサポートいたします

【根拠法令・参考資料】

・労働基準法第89条(就業規則の作成及び届出の義務)
・労働契約法第3条第5項(権利濫用の禁止)、第9条・第10条(就業規則による労働契約の内容の変更)
・民法第1条第3項(権利の濫用)
・Xグループ事件(東京地判令和7年2月17日、労働新聞令和8年1月26日第3530号14面掲載)
・プレジデントオンライン「給与アップでも待遇改善でもない…行動経済学でわかった『部下の不満を圧倒的に減らす人事評価』の神ワザ」(2026年4月16日配信)
・真壁昭夫『知らなかったでは済まされない 行動経済学の話』高橋書店

【免責事項】本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別具体的な事案に対する法的助言を行うものではありません。紹介した裁判例は執筆時点の公表情報に基づくものであり、同種事案においても事実関係や評価プロセスの実態により結論が異なりうる点にご留意ください。記事中の見解は執筆時点の法令・裁判例・行政解釈に基づくものであり、今後の改正等により変更される可能性があります。実際の制度設計や労使紛争対応にあたっては、顧問社会保険労務士または弁護士等の専門家にご相談ください。

AUTHOR

三重 英則(みえ ひでのり)

社会保険労務士法人T&M Nagoya 代表社員

特定社会保険労務士/経営心理士/経営法曹会議賛助会員
名古屋市を拠点に、中小企業の経営者・人事担当者に寄り添い、労務管理・人事評価制度構築・就業規則整備・労使紛争対応を一貫して支援。「顧客のために」を経営理念とし、経営者と共に歩む伴走型の社労士事務所として活動。