作成日:2026/04/17
【裁判例】ディー・アップ事件(東京地裁・2025年9月決定) ― 代表取締役のパワハラで新入社員死亡、 1億5千万円の賠償と社長辞任の衝撃 ―
| 判例解説 パワハラ |
ディー・アップ事件(東京地裁・2025年9月決定) ― 代表取締役のパワハラで新入社員死亡、 1億5千万円の賠償と社長辞任の衝撃 ― |
| 2026年4月16日|社会保険労務士法人T&M Nagoya |
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📌 この記事の要点
● 化粧品会社「ディー・アップ」の代表取締役が新入社員に対し約50分間にわたり人格否定の暴言を浴びせ、被害者はうつ病を発症後に死亡 ● 東京地裁が「調停に代わる決定」(民事調停法17条)を下し、会社と元社長に連帯して1億5千万円の支払いを命じ、社長は辞任 ● 三田労基署が業務起因性を認め労災認定済み。民事上も因果関係が実質的に認められた形 ●「会社のトップ」自らが加害者となる最悪のシナリオ ― 経営層こそがハラスメント研修の最重要対象であることを突きつけた事案 |
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2025年9月、全国的に注目を集めた一つのパワハラ事件が法的に決着しました。化粧品会社「ディー・アップ」(東京都港区)の代表取締役による新入社員へのパワハラが原因で同社員が死亡し、東京地裁が「調停に代わる決定」として会社と元社長に1億5千万円の支払いを命じ、社長が辞任するという異例の結末を迎えたのです。
本事件は、代表取締役・経営者自身によるパワハラという点でも、その賠償額の大きさという点でも、企業の労務管理に与えた衝撃は計り知れません。経営者・人事担当者の皆様にとって、決して他人事ではない重要事案として、本記事で詳しく解説します。 |
■ ディー・アップ(D-UP)とは ディー・アップ(D-UP)は、1992年創業の化粧品メーカーです。マスカラやアイライナーなどのアイメイク製品を主力とし、20〜30代の女性を中心に高い知名度を持つブランドでした。しかし、2025年の一連の報道を機に、社内の労働環境が問題視されることとなりました。
■ 被害者の入社と経緯 被害者の女性(以下「里実さん」※姓は遺族の意向により非公表)は、2021年4月に新卒で同社に入社した当時25歳の社員でした。里実さんは化粧品への強い情熱を持ち、大学時代のノートには「30歳には自分の化粧品会社をつくる」という夢を記していたといいます。そんな希望に満ちた入社から、わずか8か月後に悲劇は始まりました。
■ 問題となったパワハラ行為 2021年12月23日、里実さんは先輩社員との業務上のトラブルをきっかけに、代表取締役・坂井満社長(当時)に社長室へ呼び出されました。報道によれば、坂井社長は先輩社員の言い分を一方的に信じ、約50分間にわたって里実さんに対し以下のような言動を繰り返したとされています。なお、里実さんは取引先への直行について上司の許可を得ていたにもかかわらず、「無許可の直行」として叱責されたと報じられています。 |
| 発言・言動の内容 |
パワハラ類型 |
| 「大人をなめるなよ」「会社をなめるな」 |
威圧的言動・精神的攻撃 |
| 「お前、世の中でいう野良犬っていうんだよ」 |
人格否定(侮辱) |
| 「力のない犬ほどほえる」(翌日にも発言) |
人格否定(侮辱) |
| 「終わり。おまえ、一回帰っていいよ。自宅待機」 |
解雇を示唆する脅迫的言動 |
| これらの発言は、業務上の問題点を指導するという域を大きく超え、里実さんの人格そのものを否定・侮辱するものでした。また、代表取締役という会社の最高権力者からの発言であり、入社8か月の新入社員が反論・抵抗することは極めて困難だったといえます。 |
| 時期 |
出来事 |
| 2021年4月 |
里実さん、ディー・アップに新卒入社(当時25歳) |
| 2021年12月23日 |
代表取締役による約50分間のパワハラ面談。翌日にも侮辱的発言 |
| 2022年1月 |
うつ病と診断・休職開始 |
| 2022年7月 |
会社側が休職期間満了を理由に一方的に解雇通知 |
| 2022年8月15日 |
会社側から「保険証返納」「不正使用は詐欺罪で警察に相談」との書面送付 |
| 2022年8月24日 |
里実さんが自殺を図る(一命を取り留めるも意識は戻らず) |
| 2023年7月 |
遺族が東京地裁に損害賠償請求訴訟を提起 |
| 2023年10月 |
意識が回復しないまま死亡(享年27歳) |
| 2024年5月 |
三田労働基準監督署がパワハラを原因とする労災認定 |
| 2025年9月9日 |
東京地裁「調停に代わる決定」:1億5千万円支払い・社長辞任・謝罪 |
| 2025年9月10日 |
坂井社長が退任。双方が異議申立てをせず決定確定 |
本件の主な法的争点は以下の2点です。
争点@:代表取締役の言動はパワハラに該当するか 代表取締役が部下に対して行った言動が、労働施策総合推進法30条の2(パワハラ防止措置義務)が定めるパワハラの3要件、すなわち「@優越的な関係を背景とした A業務上必要かつ相当な範囲を超えた B就業環境を害する言動」に該当するかどうか。
なお、会社側は訴訟の過程で「里実さんに度重なる非違行動および常軌を逸した反抗的な態度があったために、適切な業務指導を行ったものでありパワハラではない」と主張していたと報じられています。
争点A:パワハラと里実さんの死亡との間に相当因果関係はあるか パワハラ発言を受けてうつ病を発症し、その後自殺に至ったというプロセスにおいて、法的に損害賠償を認めるために必要な「相当因果関係」が認められるかどうか。 |
2025年9月9日、東京地方裁判所(松下絵美裁判官)は、本件について「調停に代わる決定」(民事調停法17条、いわゆる「17条決定」)を下しました。
この決定において、裁判所は以下の事項を認定・決定しています。 |
📋 調停に代わる決定の主な内容
❶ 会社(ディー・アップ)と元代表取締役(坂井満氏)が連帯して遺族に1億5千万円を支払う ❷ 坂井満氏の代表取締役辞任(決定翌日の2025年9月10日付で退任) ❸ 社長のパワハラが里実さんの自殺につながったことを会社として正式に認める ❹ 遺族への謝罪および再発防止の実施 |
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この決定に対して双方が異議申立てをしなかったため確定し、訴訟は終結しました。
■「調停に代わる決定」(17条決定)とは 「調停に代わる決定」とは、民事調停において当事者間の合意が成立する見込みがない場合に、裁判所が職権で行う解決案の決定です(民事調停法17条)。決定に対し当事者が2週間以内に異議を申し立てなければ、裁判上の和解と同一の効力を有します(同法18条5項)。
通常の確定判決とは異なりますが、本件では双方が受け入れたことで確定し、実質的に裁判所がパワハラと死亡の因果関係を認めたものと評価されています。なお、調停決定の内容に社長の辞任が盛り込まれること自体が極めて異例であり、事件の重大性を反映した判断といえます。 |
(1)代表取締役によるパワハラの法的性質
本件で特に重要な点は、加害者が代表取締役(社長)であるということです。一般従業員から見れば、代表取締役の言葉には絶大な権力と権威があり、反論・拒否することは実質的に不可能です。
法的には以下のように二重・三重の責任が発生しています。 |
| 責任の種類 |
根拠 |
概要 |
| 代表取締役個人の不法行為責任 |
民法709条 |
故意または過失による不法行為として、被害者への直接の損害賠償責任 |
| 会社の使用者責任 |
民法715条 |
代表取締役の行為は「事業の執行」に当たり、会社も連帯して賠償責任を負う |
| 安全配慮義務違反 |
労働契約法5条 |
会社は労働者の生命・身体・精神の安全を確保する義務を負い、代表取締役自身がパワハラを行った場合はこの義務に著しく違反 |
| パワハラ防止措置義務違反 |
労働施策総合推進法30条の2 |
事業主はパワハラ防止のための雇用管理上の措置を講じる義務。代表取締役がパワハラの当事者では防止体制が機能不全に |
(2)労災認定との関係
2024年5月、三田労働基準監督署が里実さんの死亡について業務上の疾病(精神障害)による自殺として労災認定しました。
労災認定は行政上の判断ですが、民事訴訟においても「業務と精神疾患・自殺の間に相当因果関係がある」ことの有力な証拠となります。本件でも、労災認定が東京地裁の決定に大きく影響したと考えられます。 |
(3)人格否定発言の法的評価
「野良犬」という言葉は、単に厳しい言葉というレベルを超え、被害者の人格・尊厳そのものを否定する侮辱的表現です。
厚生労働省のパワハラ防止指針(令和2年厚生労働省告示第5号)では、「人格を否定するような言動」が精神的な攻撃型パワハラの典型例として挙げられています。一度の発言であっても、内容の悪質性によっては不法行為が成立します。本件では、このような言動が約50分間にわたって繰り返されており、悪質性は極めて高いと評価されたものと考えられます。 |
(4)賠償額1億5千万円の意味
1億5千万円という金額は、パワハラ事案の中でも非常に高額な部類に入ります。損害の算定においては、通常「逸失利益(被害者が将来得られたはずの収入の現在価値)」「慰謝料(精神的苦痛に対する賠償)」「葬儀費用等」「弁護士費用」が考慮されます。
里実さんは享年27歳で、就労可能年数が長く残されていたため、逸失利益が高額になったと考えられます。この金額は、経営者にとってパワハラが「経営リスク」そのものであることを端的に示しています。 |
示唆@ 「トップ自らが加害者」という最悪のシナリオ
多くの企業では、「パワハラ対策=管理職・上司の教育」と考えています。しかし本件は、代表取締役自身が加害者であり、パワハラ防止措置が機能する前提条件そのものが崩れているケースです。
このような事態を防ぐためには、以下のような体制整備が不可欠です。
▶ 取締役会・監査役によるガバナンス機能の発揮 ― 代表取締役の言動をチェックできる体制 ▶ 外部の相談窓口(第三者機関)の設置 ― 代表取締役に関する問題を内部で申告しにくい場合の外部出口の確保 ▶ ハラスメント研修の経営層への実施 ― 代表取締役自身が研修対象から外れないこと |
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示唆A 「たった一言」でも不法行為になりうる
「野良犬」という一言は、50分間の叱責の中の一場面です。しかし、このような人格否定の発言は、一度でも深刻な心理的ダメージを与えうるものです。
✕「少しきつく言っただけ」「厳しく指導しただけ」という認識は通用しません ✕ 特に人格を否定する言葉は、たとえ一度であっても不法行為が成立しえます ✕「業務指導の範囲内」との抗弁は、人格攻撃が含まれる時点で認められにくくなります |
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示唆B 休職者の解雇タイミングに要注意 ― 特に業務起因の場合
本件では、里実さんはうつ病で休職した後、2022年7月に休職期間満了を理由に解雇されました。さらに報道によれば、会社側は「保険証の不正使用は詐欺罪として警察に相談する」旨の書面を送付したとされています。
精神疾患による休職者への解雇判断は、労務管理上の最も難しい場面の一つです。特に、休職の原因が業務上の事由(特にパワハラ)である場合、労働基準法19条により解雇は原則として制限されるうえ、後の損害賠償請求において会社の責任をさらに重くする要因となります。 |
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| ☐ 休職の原因が業務起因性(パワハラ・長時間労働等)かどうかを確認したか |
| ☐ 業務起因性がある場合は安易に解雇せず、社労士・弁護士等の専門家に相談したか |
| ☐ 主治医・産業医の意見を踏まえた復職判断ができているか |
| ☐ 復職支援プログラム(リワーク等)の検討を行ったか |
| ☐ 解雇通知の時期・方法が適切か(威圧的な書面送付をしていないか) |
| ☐ 労基法19条(業務上の疾病による療養中の解雇制限)に違反していないか |
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示唆C 社長・役員へのパワハラ研修は「必須」
本件を機に、「代表取締役・役員もパワハラ研修の対象」であることを改めて確認してください。多くのパワハラ研修は管理職以下を対象としていますが、最も権力を持つ経営層こそ、その言葉の影響力を自覚する研修が必要です。
労働施策総合推進法30条の3第2項でも、「事業主は、職場におけるパワーハラスメントを行ってはならないこと(中略)に対するその雇用する労働者の関心と理解を深め(中略)研修の実施その他の必要な配慮をする」ことが求められています。ここでいう「事業主」には法人の役員も含まれます。 |
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ディー・アップ事件は、日本のパワハラ対策において深く考えさせられる事件です。被害者は新入社員として社会に踏み出したばかりの25歳。夢を持って入社した会社で、最高権力者からの言葉によって人生を絶たれました。
社労士として経営者・人事担当者の皆様に強くお伝えしたいのは、以下の3点です。 |
❶ 「会社のトップ」こそ、最もパワハラに注意すべき立場 権力が大きいほど、言葉の傷は深い。代表取締役の一言は、新入社員にとって「人生を左右する宣告」になりうる |
❷ 一言の人格否定が、1億5千万円の賠償と信頼失墜につながる 「厳しく指導しただけ」は通用しない。人格攻撃はいかなる業務上の必要性をもってしても正当化されない |
❸ ハラスメント対策は「経営層のガバナンス」から始める 「従業員への教育」だけではない。トップを監視・牽制できる仕組み(外部相談窓口・取締役会のチェック機能)が不可欠 |
| ※ 初回相談は無料です。経営層向けハラスメント研修も対応しています。 |
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📖 根拠法令・参考資料
・労働施策総合推進法(昭和41年法律第132号)第30条の2、第30条の3 ・パワハラ防止指針(令和2年厚生労働省告示第5号) ・労働契約法(平成19年法律第128号)第5条(安全配慮義務) ・民法第709条(不法行為)、第715条(使用者責任) ・民事調停法(昭和26年法律第222号)第17条、第18条 ・労働基準法第19条(解雇制限) ・日本経済新聞「化粧品会社ディー・アップでパワハラ自殺、社長辞任し遺族に1.5億円支払いへ」(2025年9月11日) ・毎日新聞「『野良犬』とパワハラで社員自殺 化粧品会社が遺族に1.5億円支払い」(2025年9月11日) ・朝日新聞「化粧品会社でパワハラ、新入社員が死亡 社長辞任し1億円超支払いへ」(2025年9月11日) |
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| ※ 本記事は上記の公開報道・法令情報に基づき、経営者・人事担当者の皆様への情報提供を目的として作成しています。個別の法的判断や具体的なハラスメント対応については、社会保険労務士または弁護士にご相談ください。本記事の内容は執筆時点の情報であり、今後の法改正等により変更される可能性があります。 |
執筆者 三重 英則(みえ ひでのり) 社会保険労務士法人T&M Nagoya 代表社員 特定社会保険労務士 / 経営心理士 / 経営法曹会議賛助会員 |