社労士が解説する労務デューデリジェンスの重要性
近年、日本国内におけるM&A(企業の合併・買収)の件数は年々増加しており、2024年には過去最多を記録しました。事業承継問題を抱える中小企業や、成長戦略の一環として他社を買収する企業が増えている背景があります。
しかしその一方で、M&A取引における「労働者保護」が十分に行われていないという指摘が相次いでいます。2025年3月、厚生労働省は労働政策審議会に専門部会を設置し、M&A時の労働者保護ルールの見直しを開始しました。
本記事では、社会保険労務士の視点から、M&Aにおける労務リスクと、売り手・買い手双方が注意すべきポイントを詳しく解説します。
| 未払い 残業代 |
社会保険 未加入 |
就業規則 の不備 |
労使関係 の健全性 |
従業員への 情報開示 |
| 数百万〜数千万円の簿外債務 | 過去遡及の保険料支払い義務 | 買収後の労務トラブルの火種 | PMIスムーズ性への影響 | 従業員の不安・不信感 |
M&Aのデューデリジェンス(DD)では、財務面や法務面のチェックが重視されます。しかし、意外と見落とされがちなのが「未払い残業代」です。
中小企業では、残業時間の管理が不十分で、実際には残業代が支払われていないケースが少なくありません。これが買収後に発覚すると、買い手企業が過去の未払い分を負担しなければならない事態に陥ります。
⚠ 注意:労働基準法では、未払い残業代の請求権は2年間(2020年4月以降は3年間)遡って請求可能です。数百万円〜数千万円規模の簿外債務が隠れている可能性があります。
社会保険(健康保険・厚生年金保険)への加入は法律で義務付けられていますが、中小企業では従業員の一部が未加入のまま放置されているケースがあります。
M&A後にこれが発覚すると、過去に遡って保険料を支払う必要が生じるだけでなく、従業員との信頼関係も損なわれます。
就業規則が法改正に対応していない、または退職金制度が曖昧なまま運用されている企業も多く見られます。これらの不備は、買収後の労務トラブルの火種となります。
労働組合がある場合、M&Aに対してどのようなスタンスを取るかは重要な問題です。組合との関係が良好でない場合、M&A後の統合プロセス(PMI)がスムーズに進まないリスクがあります。
今回、厚労省が問題視しているのがこの点です。買収される側の従業員に対して、M&Aの内容や今後の雇用条件について十分な説明が行われないまま取引が進むケースが多く、従業員の不安や不信感を招いています。
2024年6月に成立した「事業性融資の推進等に関する法律」の附帯決議では、「合併・事業譲渡をはじめ企業組織の再編に伴う労働者保護に関する諸問題について、実態把握を行うとともに、速やかに検討を進め、必要に応じて立法上の措置を講ずること」とされました。
この決議を受けて、2025年3月に労働政策審議会労働条件分科会の下に「組織再編に伴う労働関係の調整に関する部会」が設置されたのです。
| 2024年6月 | 「事業性融資の推進等に関する法律」成立 附帯決議で労働者保護の強化を明示 |
| 2025年3月 | 労働政策審議会に「組織再編に伴う労働関係の調整に関する部会」設置 → 現在進行中 |
| 今後 | 「事業譲渡等指針」の強化 労働者保護ルールの厳格化 |
現在、事業譲渡や合併を行う際には「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針(事業譲渡等指針)」が適用されています。
この指針では、以下のような事項が企業に求められています:
| (1) | 労働者の過半数で組織する労働組合等との事前協議 |
| (2) | 承継予定労働者からの承諾取得 |
| (3) | 労働条件に関する十分な説明 |
| (4) | 解雇の制限 |
今回の見直しでは、こうした指針がさらに強化され、労働者保護の実効性を高める方向で議論が進められる見込みです。
労務デューデリジェンス(労務DD)とは、M&Aの対象企業における人事・労務面のリスクを調査・分析するプロセスです。
| 調査項目 | 確認内容 |
| @労働契約・雇用形態 | 正社員、契約社員、パート、アルバイトの人数と契約内容 |
| A賃金・労働時間管理 | タイムカード、賃金台帳、未払い残業代の有無 |
| B社会保険・労働保険 | 適用対象者全員の加入状況、保険料の滞納有無 |
| C就業規則・諸規程 | 労基署届出、法改正対応、各種規程の整備 |
| D労使関係 | 労働組合の有無、過去の労働紛争 |
| E安全衛生管理 | 管理体制の整備、労災事故の発生状況 |
| F人材・離職 | 過去3年の離職率、退職理由の分析 |
労務DDは、基本合意(LOI)締結後、最終契約締結前のタイミングで実施するのが一般的です。この段階で重大な労務リスクが発見された場合、買収金額の減額交渉や、契約条件の見直しを行うことができます。
| トラブル内容 | 金額インパクト | 詳細 |
| 未払い残業代 | 2,200万円 | 従業員10名、過去3年分の未払い(サービス残業常態化) |
| 社会保険未加入 | 800万円 | パート従業員10名、過去2年分の保険料 |
| 人材流出 | 甚大(事業価値喪失) | 優秀なデザイナー5名が6ヶ月以内に離職 |
M&Aを検討している売り手企業の経営者の方は、以下の点を早めにチェックしておくことをお勧めします。
| 優先度 | 確認項目 | 対応内容 |
| ★★★ | 未払い残業代の有無 | 過去の労働時間記録を見直し、発生している場合はM&A前に清算 |
| ★★★ | 社会保険の加入漏れ | 全従業員の加入状況を確認、未加入者は速やかに加入手続き |
| ★★☆ | 就業規則の最新化 | 同一労働同一賃金、ハラスメント防止、育児・介護休業、年次有給休暇対応 |
| ★★☆ | 労働契約書の整備 | 全従業員と適切な労働契約が締結されているか確認、未整備は早急に対応 |
| ★☆☆ | 従業員コミュニケーション計画 | M&A公表タイミングや従業員説明方法について事前計画を立案 |
買収価格が相場より安い場合、労務面に何らかの問題が隠れている可能性があります。必ず労務DDを実施し、リスクを可視化しましょう。
M&A契約書には、売り手企業が「労務面で重大な問題がないこと」を保証する「表明保証条項」を盛り込むことが重要です。万一、買収後に労務問題が発覚した場合の補償について、明確に定めておきましょう。
1. 全従業員に対する賃金(残業代を含む)は適法に支払われており、未払い賃金は存在しない
2. 全従業員が法令に従い社会保険・労働保険に加入しており、保険料の滞納はない
3. 労働基準監督署、年金事務所等から是正勧告を受けておらず、係争中の労働紛争は存在しない
4. 就業規則その他の労務関連規程は労働基準法その他の法令に適合している
5. 退職金債務の総額は●●万円を超えない
6. 従業員との間で、書面によらない労働条件の約束は存在しない
上記表明保証に違反していたことが判明し、買主に損害が発生した場合、売主は買主に対し、当該損害の全額を補償する。ただし、補償総額は買収価格の●%を上限とする。
買収後、従業員をどのように統合していくか、事前に計画を立てておく必要があります。
| 統合項目 | 具体的対応 |
| 給与体系の統一 | 給与水準の見直し、手当体系の統一スケジュール |
| 人事評価制度の統合 | 評価基準の統一、従業員教育の実施 |
| 福利厚生の調整 | 保険、退職金制度、各種手当の統一 |
| 企業文化の融合 | 研修・交流会の開催、理念の浸透 |
⚠ 警告:これらを計画的に進めないと、従業員の不満が高まり、大量離職につながるリスクがあります。
買収後、できるだけ早い段階で従業員に対して丁寧な説明を行うことが重要です。「何も聞かされていない」という不安が、優秀な人材の流出を招きます。
実際にM&A後に発生した労務トラブルの事例をいくつかご紹介します。
| 状況 | 製造業を買収。財務DD・法務DDは実施したが、労務DDは省略。 |
| トラブル | 買収から6ヶ月後、従業員10名から「過去3年分の未払い残業代」を請求される労働審判が提起された。 |
| 原因 | タイムカードで労働時間を記録していたが、実際には「定時でタイムカードを打刻してから残業する」という慣行があり、サービス残業が常態化していた。 |
| 結果 | 買い手企業は2,200万円の未払い残業代を支払うことになった。 |
| 状況 | 飲食業を買収。パート従業員20名を含む30名の従業員を引き継いだ。 |
| トラブル | 買収から3ヶ月後、年金事務所の調査により、パート従業員のうち10名が社会保険の加入要件を満たしているにも関わらず未加入であることが判明。 |
| 結果 | 過去2年分の社会保険料約800万円を支払うことになった。加えて、従業員からの信頼も失墜。 |
| 状況 | デザイン会社を買収。「雇用条件は変わらない」と従業員に説明。 |
| トラブル | 買収から6ヶ月以内に、デザイナー8名中5名が退職。 |
| 原因 | 買い手企業の社風が「数字重視・効率重視」であったのに対し、買収企業は「クリエイティブ重視・自由な社風」だった。表面的な雇用条件は変わらなかったが、評価制度や業務の進め方が大きく変わり、従業員が不満を抱いた。 |
| 結果 | 事業価値の源泉だった優秀なデザイナーを失い、事業そのものが成り立たなくなった。 |
厚生労働省による今回の見直しにより、M&A時の労働者保護ルールはさらに厳格化される見込みです。
| 変化の内容 | 企業への影響 |
| 情報開示義務の強化 | 買収される側の従業員に対して、より早い段階で、より詳細な情報提供が求められる可能性 |
| 労働組合等との協議義務の明確化 | 労働組合がある場合の協議プロセスがより具体的に定められる |
| 罰則規定の導入 | 労働者保護ルールに違反した場合の罰則が設けられる可能性 |
こうした動きは、M&Aを検討する企業にとって、労務面での準備がますます重要になることを意味しています。
限られた時間でも、以下の項目は必ず確認しましょう。
| □ | 過去3年分のタイムカードと賃金台帳の整合性 |
| □ | 残業代の計算方法(基礎賃金、割増率)の適法性 |
| □ | 固定残業代制度の運用が適法か |
| □ | 管理監督者の範囲が適切か |
| □ | 36協定の締結・届出状況 |
| □ | 未払い残業代のリスク額試算 |
| □ | 全従業員(パート・アルバイト含む)の加入状況 |
| □ | 加入要件を満たす従業員の未加入がないか |
| □ | 保険料の滞納がないか |
| □ | 労災事故の発生状況と対応 |
| □ | 就業規則の労基署届出状況 |
| □ | 内容が現行法に適合しているか |
| □ | 賃金規程、退職金規程の有無と内容 |
| □ | 育児・介護休業規程の整備状況 |
| □ | ハラスメント防止規程の整備 |
| □ | 退職金制度の有無と内容 |
| □ | 全従業員が今退職した場合の債務総額 |
| □ | 確定給付年金・確定拠出年金の状況 |
| □ | その他福利厚生制度の内容 |
| □ | 労働組合の有無と活動状況 |
| □ | 過去5年間の労働紛争(訴訟、労働審判等) |
| □ | 労働基準監督署からの是正勧告の有無 |
| □ | 団体交渉の実施状況 |
| □ | 主要な従業員の在籍意向ヒアリング |
| □ | 競業避止義務の有無と内容 |
| □ | 技術・ノウハウの属人性 |
| □ | 過去3年間の離職率と退職理由 |
| □ | 全従業員との労働契約書の締結状況 |
| □ | 雇用形態別の人数と契約内容 |
| □ | 有期契約社員の無期転換対応状況 |
| □ | 同一労働同一賃金への対応状況 |
| 段階 | 対応 |
| 基本合意前 | 情報漏洩リスクがあるため、原則として開示しない |
| 最終契約締結後 | 速やかに全従業員に開示 |
| クロージング後 | 詳細な説明会を実施 |
| 方法 | 実施内容 |
| 1. 全体説明会 | 経営者自らが説明 |
| 2. 質疑応答時間 | 十分な時間を確保 |
| 3. 個別面談 | 特にキーパーソンには個別対応 |
| 4. 書面での通知 | 口頭だけでなく、書面でも通知 |
M&Aは企業同士の取引ですが、その中心にいるのは「人」です。財務面や法務面のデューデリジェンスと同じくらい、あるいはそれ以上に、労務面のチェックと従業員への配慮が重要です。
従業員の雇用を守りながら事業を次世代に引き継ぐためには、早い段階から労務面の整備を進めることが不可欠です。労務面がクリーンな会社であることを証明できれば、より良い条件でのM&Aが実現できます。
「買収後に問題が発覚」では遅すぎます。労務DDを徹底し、人的リスクを可視化することが、M&A成功の鍵を握ります。表明保証条項を活用し、リスクを適切に配分しましょう。
今回の労働者保護ルールの見直しは、M&A実務における「人」の重要性が、政策レベルでも認識されたことを意味します。今後、労務面での準備がますます重要になることは間違いありません。
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