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作成日:2025/12/08
在職中の勧誘は違法となるか? アジャイル事件判決からみる「競業避止義務」の限界と実務対策

2025122日、東京地方裁判所は、IT企業における集団退職を巡る訴訟(アジャイル事件)において、元幹部社員が在職中に同僚らに対し退職を促す行為が不法行為に該当するとの判断を示しました。企業側の損害賠償請求を一部認容した本判決は、在職中の引き抜き行為と競業避止義務の限界について、企業実務に重要な示唆を与えるものです。

 

1】事案の概要と東京地裁の判断

本件は、被告である元幹部社員(執行役員および取締役副社長経験者)らが、在職中に複数の従業員へ退職を勧誘し、その結果23名が同時期に退職した事案です。原告企業は、これを組織的な引き抜き行為であり、企業秩序を侵害したとして損害賠償を請求しました。

 

東京地裁は、以下の事実認定を行い、違法性を判断しました。

第一に、在職中の勧誘行為が継続的かつ計画的に行われていた点です。被告らは退職前から一斉退職に向けて認識を共有し、社内チャット等を用いて直接的・間接的な働きかけを行っていました。

第二に、不当な方法が用いられた点です。被告らは、顧客に対して「別会社で事業を行うことを会社は了承済みである」といった虚偽の説明を行ったり、在職中の従業員に転職先のメールアドレスを割り当てたりするなど、社会通念上相当な範囲を逸脱した態様が認められました。

第三に、企業の営業活動に実際の支障が生じた点です。23名もの従業員(役職者を含む)が一斉に離脱したことで、会社は緊急の採用活動や業務委託を余儀なくされ、重大な損害が発生しました。

 

これらの事実から、裁判所は「在職中の従業員による一斉退職勧誘行為が信義則違反・不法行為に該当する」と判断し、元幹部社員らに対して、採用費や業務委託費、逸失利益の一部など、計約2900万円の損害賠償を命じました。就業規則上の競業避止義務違反そのものだけでなく、在職中の引き抜き行為が、その態様によっては不法行為として賠償責任の対象となることを明確にした点で意義深い判決です。

 

2】過去の裁判例との比較(有効・無効の分水嶺)

在職中の勧誘や退職後の競業がすべて違法となるわけではありません。過去の裁判例と比較することで、その境界線が見えてきます。

 1. アメリカンホーム保険事件(東京地判平成24113日)

本件は、外資系保険会社の元執行役員が競合他社へ転職した際、会社側が競業避止義務違反などを主張した事案です。裁判所は、競業避止義務契約の有効性を以下の理由から否定しました。

まず、当該元社員は「執行役員」という肩書きでしたが、経営者と同等の地位にはなく、労働者性が認められました。また、保険商品の販売手法は透明性が高く、秘密情報へのアクセスも限定的であったため、企業独自のノウハウや機密情報を保護する必要性が低いと判断されました。さらに、広範な競業禁止義務を課すに見合う十分な代償措置も講じられていなかったことから、職業選択の自由を不当に制約するものとして無効とされました。アジャイル事件とは対照的に、守るべき利益の具体性や代償措置の欠如が、義務違反を否定する要因となった例です。

 2. ライドウェーブコンサルティング事件(東京地判平成21119日)

元従業員が退職後に競合会社を設立し、旧会社の取引先を奪った事案です。裁判所は、元従業員が在職時に負っていた機密保持契約および競業避止義務への違反を認め、損害賠償請求を一部認容しました(会社側の一部勝訴)。

ただし、裁判所は損害と行為との因果関係を慎重に判断する傾向にあります。本件でも請求のすべてが認められたわけではなく、実害の範囲が厳密に認定されました。

これらの判例が示すのは、単に「競業避止義務規定があるから安心」あるいは「退職は自由だから何でも許される」という単純な構造ではないということです。裁判所は、「使用者の正当な利益(営業秘密や顧客情報)の保護」という目的の正当性、「従業員の地位・業務内容」、「制限の範囲・期間の合理性」、「代償措置の有無」といった要素を総合的に考慮し、さらに引き抜き行為においては「背信性の程度(在職中の計画性や虚偽説明など)」を重視して判断を下しています。

 

3】企業としてとるべき対策

アジャイル事件の教訓を踏まえ、企業は以下の対策を講じることが推奨されます。

まず、誓約書や就業規則の整備です。「会社の営業秘密・顧客情報・技術情報の保護」を目的とすることを明記し、対象者を機密情報に触れる役職者等に限定するなど、合理的な設計が必要です。すべての同業他社への就職を一律に禁じるのではなく、「退職時に担当していた顧客への営業活動」や「特定の地位への就任」などに限定することで、有効性を高めることができます。期間についても、1年程度を目安とし、業務の実態に応じた地域制限を設けることが望ましいでしょう。

次に、研修・周知の徹底です。入社時や昇格時に誓約書を取り交わすだけでなく、その趣旨を説明する機会を設けることが重要です。また、退職時には再度、禁止行為や情報管理について書面で確認を行い、リスクを認識させるプロセスを構築すべきです。

 

アジャイル事件は、形式的な規定の有無にかかわらず、悪質な引き抜き行為には法的責任が問われることを示しました。しかし、裏を返せば、企業側が守るべき利益とルールを明確にし、適正な労務管理を行っていなければ、損害の回復は困難であるとも言えます。実態に即した規程の見直しと運用体制の構築をご検討ください。